エピローグ5 澪標(みおつくし)
応仁三年の秋。
安宅丸が『花の御所』から出てくる。
左手に薬箱のような物を抱えている。
<面倒な物を預かったものだ>彼が思う。
ウツロギ峠から帰ってきた安宅丸は、しばらく片田村にひっこんでいた。戦に嫌気が差したのだった。本気で僧になろうと思ったこともある。
それでも、帆船の上甲板で受ける風、日差しが忘れられず、片田順に、ふたたび貿易航海に出ることを望んだ。
片田は、それならば琉球以南の南洋航路を開拓してみてはどうだ、と提案する。
まだ見ぬ土地や人、商品など、安宅丸にとって魅力的だったので、安宅丸はその話に乗った。
そうしたら、どこで聞きつけたのか、南洋に行くのであれば頼みたいことがある、と将軍足利義政の『花の御所』から呼び出しが来た。
御所に参上すると、薬師寺備後守と名乗る男が出てきて、南洋に行くのであれば、ぜひ香木を購入してきて欲しい、香木といっても何のことかわからないであろうから、ここに見本を用意したので下げ渡す。
そういって、この薬箱のようなものを渡された。
薬師寺備後守とは、薬師寺元長のことである。
小さな引き出しがたくさんあり、それぞれに紙袋に入った小さな香木とやらが入っている。紙袋には、その香木の名前が書いてある、という。
なんでも足利義政が、志野宗信という側近に命じて、将軍家所蔵の名香を六十種類ぐらいに分類しはじめているのだという。
安宅丸に渡されたのは、それら分類された香の見本だという。
良い香木は極めて高価で取引される、ということだけはわかった。
『花の御所』を出て、室町通を鏡屋町に向かって下る。鏡屋町の『あや』の鏡屋も、その裏の片田商店も焼け残った。安宅丸の今夜の宿は、鏡屋だ。
片田商店では、小猿達が洛陽新報を発行している。
この夏に片田村で『うなぎや』と称する商店が、『南洋株』の分割債を発行したという、水面下では野洲弾正忠が『南洋株』と『守護債』の交換を進めている、ともいわれていた。
安宅丸の周囲でも、南洋株の話題が増えていた。
一条通との交差点まで下ってくると、焼け跡に蔵が一つ建っていた。手前の『へっつい』のあたりは、通り庭の跡だろうか。『へっつい』の上には応急の屋根が架けられている。
<人が住んでいるのかな>安宅丸が思った。
蔵から少年が出てくる。十二、三歳だろうか。まだ大人ではない、それなのに烏帽子をかぶっており、片手に米が入っているような袋を持っていた。
反対の手に杖を持っている。それで地面を探るようにして『へっつい』の方に歩いてくる。<盲なのか>
おそらく、焼け出された戦災孤児だろう。ここが彼の家族の家だったのかもしれない。
安宅丸はあのような孤児を見るのが辛かった。彼の軍がウツロギ峠で多くの敵兵を倒した。味方の兵も幾人も死んだ。彼自身があの様な孤児を無数に作り出したに違いないのだから。
黙って立ち去ろうとするが、その時少年が転びかける。
やむを得ぬ。そう思って安宅丸が少年の方に向かった。
「手伝おう。私は大和片田村の安宅丸という」
「手伝ってくれるの、ありがとう。僕は菊丸。秋の花の菊だ」少年が礼を言う。
安宅丸が、菊丸の目を見る。黒目が白濁している。
<底翳か。若いのに気の毒なことだ。ここまで進んでいるのでは、光を感じることは出来ても、文字を読んだり、人の顔を見分けることは出来ないであろう>
安宅丸が米袋を受け取り、井戸の水で洗い、釜に入れて飯を炊く。『へっつい』には残り火があったので、薪をくべてやるだけでよかった。
「安宅丸さんは、お坊さんなの」菊丸が尋ねる。
「いや、なんでそう思うんだ」
「だって、白檀の匂いがするもの」
「白檀か、さて、心当たりがないが」そういって、気付いた。この薬箱だな。
「偉い人から、香木の見本というものを預かっている。この箱がそうだ」
安宅丸がそう言って、菊丸が触れるように、彼の前に薬箱を置く。
「これ、小さな引き出しかな」そう言って、菊丸が慎重に引き出しを開ける。
「白檀だけじゃないね、これ伽羅かもしれない」
<そういえば、備後守も『きゃら』とかいう言葉を言っていたな>
白檀は、常温でも香りが立つが、伽羅は加熱しないと匂わない。菊丸の鼻が、ほんのわずかな伽羅の香りをとらえたようだ。
「僕は、香名を言い当てるのが得意なんだよ」菊丸が言う。安宅丸には何のことかわからない。
「伽羅の香には、いろいろな香りがあって、六十種類くらいもの名前が付いているんだ」
「それは、私もついさっき聞いたばかりだ」
「それを当てるんだよ。嘘だと思う、やってみせてあげるよ」
飯が炊けるまでのあいだに、菊丸が当てるというので、見せてもらうことにした。
焼けた炭を一つ火箸に挟み、菊丸にひかれて蔵の中に入る。目の不自由な子供が一人で暮らしている割には整頓されている。
菊丸に言われるがまま、小さな香炉に炭を入れる。菊丸が雲母の薄片が入った箱と鉄製の小さなはさみのようなものを持ち出してきた。
「このハサミみたいのは、銀葉挟というんだ。これの先に、箱の中にある銀葉を一枚挟んで、その上に、香をほんの少し砕いて載せてみて」
菊丸は雲母の薄片を銀葉と呼んだ。
「ほんの少しって、どれくらいだ」
「米粒一つを四つに分けたくらいだよ」
安宅丸が、薬箱のなかから、一つ紙袋を選び、中の香木を、銀葉挟でつついて小さな欠片を作る。
それを銀葉の上に載せて、炭の上に置いた。
蔵の中に華やかな香木の香りが拡がる。まるで蔵が光に包まれたかのようだった。
「これは、伽羅。甘くて辛い香りだ。これは『薄紅』だね。いい香りだ。これは相当良い物だと思う。さっき偉い人から預かったと言っていたけど、すごく偉い人だね」菊丸が言う。
安宅丸が香を包んでいた袋を見る。そこには『薄紅』と書いてあった。
「これは、将軍様から預かったものだ」
「将軍様の名香かぁ。すごい。そんな品を聞くことは、一生涯かかっても無いもんだと思っていた。それ、佐々木道誉という昔の武将が集めたものだよ。父さんがそう言っていた」
「他のも嗅いでみるか」
「うん。でも、香の場合は嗅ぐ、とは言わないんだよ。聞くって言うんだ」
「わかった、じゃあ、次はこれだ」
「これはね。羅国だ。辛くて苦い。たぶん『八橋』だね」
安宅丸が袋を見る。確かに『八橋』と書かれている。
菊丸が、次は、次は、とせがむ。
「では、これはどうだ」そういって、安宅丸と試す。菊丸はどれも言い当てる。途中で少し休んで空気を入れ替える。
おそらく、『へっつい』の飯は、もう焦げてしまっているだろう。
「次はこれだ。なんと聞く」安宅丸が銀葉を炭の上に置く。
菊丸はこれもすぐに聞き分けたようだった。が香名をすぐには言わない。
「ん、どうした」
菊丸の見えない目から、涙が一筋、落ちた。
「これは、『澪標』だよ。戦の前、最後に家族で組香したときの香だ」
安宅丸はしまった、と思った。なにか菊丸の触れてはいけない所に手を突っ込んだようだ。
「すまない、悪いことを思い出させたようだ」
「いいんだよ。そうじゃない。香が一番良かった時の事を思い出させてくれた」
「菊丸、家族はどうしたんだ」
「父さんと、母さんは、戦で死んでしまった。兄さんは……」
「兄さん、いるのか」
「出て行ってしまった。もう、たぶん、帰ってこないと思う」
「一人なのか」
「うん」
「ならば、俺の所に来るか」
「どういうこと」
「俺は船に乗って南の国に商売をしに行く、琉球よりもっと遠い所だ。香木が採れる所にも行くつもりだ。それだから将軍様が、この見本を俺に預けたのだ」
将軍家の名香を持っている男だ。嘘は無いだろう。この香木がどれ程のものか、菊丸は知っている。間違いなく門外不出級の名香だ。
「扶南とか、林邑にも行くのか」
「そうだ。向こうで香木を買って、この国に持ってくると、高く売れるそうだ。香木を買う時、菊丸が目利きしてくれると、ありがたい」
「船って、目が見えなくても乗れるのか」
「ああ、船の中を自由に歩き回るわけにはいかないがな」
「それ、仕事なのか、銭はもらえるのか」
「もちろんだ。香木は高い物らしいから、相当な銭になるだろう。菊丸にもかなりの銭を渡せる」
目が見えなくとも、暮らしに困らない仕事に就ける。将来の心配も無くなるかもしれない。菊丸は安宅丸についていくことにした。
「いつ、行くんだ」
「菊丸が良ければ、いますぐにだ」
「待って、ちょっと準備する。すぐだから」
そう言って、菊丸が信楽焼の壺を取り出してくる。銭や銀は少なくなっていた。そこに銀葉挟や銀葉の箱、筆記具、最後に母の位牌を差し込む。
後は、幾つかの着替えを纏めて、壺と一緒に風呂敷に包む。
「いいよ」
安宅丸が菊丸の手を引きながら、蔵を後にする。
安宅丸が思う。
俺は戦で多くの兵を死に追いやった。敵も味方もだ。その罪は消えることはない。そのことで、俺は死ぬまで苦しむだろう。
『罪滅ぼし』という言葉があるが、そんなものはない。罪は決して滅びることはないんだ。罪は滅びず、最後まで自分を苦しめる。
でも、せめて生きている間は、『罪滅ぼし』のようなことをやり、人の役には立ち続けたい。死んでいった者に対するせめてもの償いだ。
『澪標』とは、港の入口などに立てる串、標識であり、船が無事に入港するための道案内だ。
その串は船が航行出来る澪と言う場所と、航行できない浅瀬とを区別している。
この子には才能がある。この才能が生きるように、せめて菊丸の澪標になってやりたい。
「『澪標』。『身を尽くし』、か。よく言ったもんだ」安宅丸が思う。
『戦国の片田順 外伝』 ― おしまい ―
外伝を始めた時には、もっと短くなるはずだったのですが、本編に書ききれなかったアイデアを盛り込んでいったら、百話以上になってしまいました。
ふたたび長くなってしまった物語、ここまで読んでいただきありがとうございました。
次こそは、第二部でお会いしましょう。
弥一




