エピローグ3 鳥辺野(とりべの)
三条の医師が、公世とともにやってきた。
薬箱を脇に置き、母親の傷口を検める。綿布を取り除くと、布に緑色の、普段見ない膿が大量に付いていた。
<これは、いけない>医師が思う。長くはないな。医師は傷口を洗い、新しい綿布を当て、包帯代わりの手拭で縛る。
「坊や、なんて名前だったかな」医師が菊丸に向かって言う。
「菊丸です」
「そうか、菊丸。私はお兄さんと話がある。その間、母さんの様子を見ていられるか」
菊丸が頷く。
二人が少し離れたところに歩いていく。
なんだろう、訝しく思った菊丸が二人の方を見ていると、兄が驚いて目を見張るような素振りをする。医師が兄の肩を掴んで揺する。医師が何か言って、二人が菊丸の方を見る。
やがて二人がこちらに向かって帰ってくる。
「明日から、一日一度は来るから、心配するな」医師が菊丸に向かって言う。
「でも」
「銭は、いい。銭の心配はしなくともよいぞ」
「はい」
それから、数日が過ぎ、三条の医師は約束通り、毎日一度はやってきて、母の傷口を洗い、布を交換していった。
「菊丸や、お母さんは、もうだめかもしれない」母が菊丸にそう言ったのが二日前だった。それ以降、話す力も無くなった。
既に体の一部で腐敗が始まっているようだった。異臭が強くなってくる。
三日後、医師が母親の脈を測りながら、言った。
「お母さんは、お亡くなりになった」
この頃には、菊丸にも事情が分かっていたので、それを受け入れた。
「私の方で、僧侶に伝えて置くので、弔いをしてあげるがよい」医師がそう言って、去っていった。
「兄さん、お弔いといっても、銭がないよね」
「ああ、そうだ」
この時代でも、葬式を出すには数百文から一貫程の銭が必要であった。祐清の弔いの時には、『たまがき』は一貫を少し超すくらいの費用を費やしている。
二人はどうしたらいいのか、わからないので蔵の中に母の亡骸を横たえておくしかなかった。腐敗臭が酷くなってくるが、遺体を外に出せば、野犬に食われてしまう。
菊丸が夢の中で見た、父の信楽焼の壺を思い出す。そういえば、父が手元の銭を保管していた、あの信楽はまだ見つかっていない。
「兄さん、父さんが銭を入れていた信楽、覚えている」菊丸が尋ねる。
「ああ、覚えている」
「あれ、まだ焼け跡から見つかっていないよね」
「そういえば、そうだな。足軽達が盗んでいったんじゃないか」
「どうかな、父さんはあの壺、いつも夜は縁の下にいれていたよね。足軽には見つからなかったんじゃないかな」
「そうか。探してみるか」
二人が、父の居間、奥庭に面した座敷があったあたりを眺める。焼け残った太い梁が斜めに倒れ掛かっていた。
父の部屋の畳の一部、一尺四方程の部分が他と別になっていた。その尺四方の畳をもち上げると、その下が壺を入れる『隠し』になっていた。
どのあたりだろう、と探すと、ちょうどそのあたりに梁が倒れ掛かっている。
それで、いままで見つからなかったのだろう。
二人で梁を移動させる。兄は右手が使えないので、左手と肩で押して梁を動かす。
梁を除けた下に、見覚えのある尺四方の畳の焼け跡を見つける。
兄がそれを取り除くと、下にあの信楽焼の壺があった。
二人が左右を見回す。人目はなかった。兄が壺を抱え、蔵の中に運び入れた。
中を開けると、かなりの量の銭や片田銀が入っていた。あわせて六十貫余りもある。
「兄さん、お弔いができるね」菊丸が言う。
「ああ、よかったな」
人を雇って、母の亡骸を鳥辺野に運んでもらう。鳥辺野、または鳥辺山とは京都の東にある葬儀をおこなう一帯のことを言う。
場所は、清水寺に向かう参道の南側から豊国廟に至る阿弥陀ケ峰の西斜面のあたりのことを言う。
平安時代から続く火葬場である。
源氏物語では、『夕顔』、『葵』と呼ばれる女性達が急逝の後、鳥辺野の煙となっている。
二人が、鳥辺野から蔵に帰ってきた。菊丸は白木に母の戒名が書かれた位牌を握っている。
「少し出てくる。帰るのは明日になるから蔵の内側から閂を掛けて寝ておくれ」兄の公世がそういって、蔵から出ていこうとする。
「どこいくの。母さんが」
「どこでもいい、とにかく出てくる」そういって兄が出て行ってしまった。
菊丸が、蔵の奥の壁際に小さな木箱を置き、そこに母の位牌を立て掛ける。
翌朝、菊丸が蔵の閂を内側から開けると、扉の脇で、兄が寝ていた。酒の臭いがする。
「昨日だけだ」目を覚ました兄はそういったが、それから数日して、やはり兄が帰ってこない。
やがて、それが毎晩のことになった。




