エピローグ2 組香(くみこう)
菊丸は夢を見ていた。
今年の正月を夢の中で思い出している。菊丸がかぞえで十一、兄が十五になった。この時は兄の元服前で、まだ菖蒲丸と名乗っていた。
「では、次のはどうかな」
父の山崎公延、桃林堂の主人が、乱箱のなかから香袋を取り出し、匙で香木の薄片を一つ掬い上げる。
それを銀葉という、爪程の大きさの雲母の薄板に載せる。
聞香炉という青磁の器の中では炭が赤く燃えている。
銀葉挟と呼ばれる金属製のハサミを使って、銀葉を炭の上に置く。
このようにすると、香木が焦げることなく、香りだけを感じることが出来る。
「どうだ、何だと聞く」
香道では、香を嗅ぐ、とは言わない。代わりに『聞く』という言葉を用いる。
「これは、伽羅だな。うーん。『苦い』のが強いけど、少し『甘い』」菖蒲丸が言う。
「そうだね」菊丸が同意する。
「わずかに『辛味』もある、これは『月』だ」菖蒲丸が言う。
「そうかなあ、辛くはないと思うけど。僕は『澪標』だと思う」菊丸が言った。
「菊丸の勝ちだ。これは澪標だ」
香木には、伽羅、羅国、真那賀など幾つかの種類がある。同じ伽羅であっても香木ごとに、さらに個性がある。その個性を『甘い』、『苦い』、『辛い』などと表現する。
これらの個性を六十一種に分類し、それぞれに『月』『澪標』などという名前が付いている、これを聞き分けることを組香という。
足利義政の時代に、彼の命により名香を、このように分類した。
「すごいな、二人とも。その齢で六十一種のほとんどを聞き分ける。さすがは桃林堂の子じゃ」公延が嬉しそうに二人を褒める。
父が信楽の小さな壺から銭を二枚ずつ出して、兄弟に渡す。
菊丸がにやっと笑ったところで目が覚める。蔵の二階に上がり、二階の観音窓を開くと、東の空が群青色になっていた。もうすぐ夜明けだ。蔵の周囲を見回してみる。おかしな様子はない。
菊丸は朝食の粥に入れる菜を取りに行くことにした。
東の方へ少し歩いていくと、一条兼良邸などの貴族の屋敷がある、そのあたりまでいけばナズナやハコベが生えている。それらを必要なだけ採る。日が昇ってきた。
眩しい。
なんだか最近、やけに日の光が眩しいような気がする。あまり食べていないからかな。
蔵で見つけた銭貫は、もうほとんど無くなった。米と味噌も、もう少ししか残っていない。どうしたもんだか。
蔵に帰って、朝食の支度をする。米を炊いて粥にし、味噌と摘んできた草を入れる。
「母さん、兄さん、出来たよ」そういって、二人に椀を渡す。
母は最近小康を得ていた。兄の方は、火傷のせいで右手の指が動かなくなった。口数が少なくなり、いつも不機嫌だった。
「ありがとうよ、菊丸」そういって菊丸の方を向いた母が、まじまじと菊丸の顔を見つめる。母はいつであっても、子供を注意深く観察している。
「菊丸、目がどうかしていないかい」
菊丸は、さっき目が眩しかったことを思い出す。
「いや、なんでもないよ。いつもどおり、良く見える。母さんの頬に炭が付いているのも見えるよ」そういってごまかした。
「え、いやだよ、この子は」母はそういって手で頬をぬぐう。
兄は、二人の話に乗ってこない。不服そうな顔で黙って粥を食べていた。
兄の公世は、年長なだけに、このようなことが長く続けられないことをよく分かっていた。このままでは三人とも行き倒れだ。
母は、思いつく限りの同業者や知り合い、桃林堂の使用人などの名前を挙げ、頼れないか訪ねてみなさい、と言ってくれた。
しかし、父の商売仲間も知り合いも、乱が続く間は上京には近寄らないだろう。公世が歩いて行ける範囲には、誰も元の場所に住んでいる者はいなかった。
なんとかしなければならないが、まだ若すぎて方策が浮かばない。両手が使えれば力仕事か何かできるだろうが、この手ではどうにもならない。
下京は、まだ焼けていない。
そちらに移動すれば、なんとかなるのかもしれないが、まだ母を動かすのは難しいし、この蔵に住んでいる方が安全なような気がする。
どうすればいいのだろう。
数日後、母の容態が悪化した。
「兄さん、お医者さんを呼んできて」菊丸が言った。
「でも、銭がないぞ」
「様子がおかしくなったら、銭の心配はせずに呼ぶように、って言ってた」
「そんなの口先だけだ。いざとなったら知らぬ顔だ」
「だめかもしんないけど、とにかく行ってきてよ」




