ペルシャ絨毯(ペルシャじゅうたん)
正実坊での寄合を終えた藍屋与兵衛が淀川を下り、堺に帰る。
堺の藍屋店舗では、片田順と、野村孫大夫の二人が待っていた。
「どうだった」片田が藤林友保に尋ねる。
「南洋株主組合が成立しました」
「そうか、うまくいったか」
「はい、加えて私が事務局を率いることになりました」
「それは、すごいじゃないか。正実坊が頭になるものとばかり思っていたが」
「正実衍運殿は、株のように上がったり下がったりするものはよく解らん、とおっしゃってご辞退なされました」
「そうだったか」
「で、組合結成から話が弾んで、そういうことならば京都の商品取引所を再建しようではないか、という話になりました」
「それは、よいですな。京都が元のように栄えます」孫大夫が言った。
「それだけではありません。なんでも来年の夏には祇園祭りを復活させよう、という話まで出てきました」
「そんな話まで出てくるということは、最後の方には酒盛りになったな」
「おっしゃるとおりです」
これは良い。組合の結束は一年後まで保たれるだろう。
翌日から、京都や堺、大和の南洋株保有者達が集団で片田村の取引所に向かった。株券を持参しているので、多くの私兵を連れている。
彼らは、取引所で所有株式を記名株券に変更した。株主として翌年には株主会議の投票権を得られる。
一年後の夏。
南洋株主組合が議決権を持った。さっそく株主会議の開催が決まる。
この直前に、『うさぎや』は、南洋社が持つ大量の守護債を全て、細川勝元に譲渡していた。
この一年間、南洋株主組合の取り崩しを画策し続けたが、ことごとく失敗した。新しくなる南洋社に守護債を残していくと、細川勝元が困ることになる。
開催された南洋社株主会議の筆頭議案は、野洲弾正忠の解任であった。
正当な理由なく、南洋社が保有する守護債、これは有価証券である、を対価無しに細川氏に譲渡し、会社に損失を与えた。これは業務上の背任に相当する。
一号議案が可決され、野洲弾正忠が南洋社から追われた。大量の株式を発行したことにより、南洋社は細川勝元と野洲弾正忠の手から離れてしまった。もはや彼らの影響力は無い。
二号議案は藍屋与兵衛の代表取締役への選任であった。これも可決される。藍屋与兵衛はその場で株主組合の事務局長を辞任し、南洋社の代表取締役となった。
上忍とは言え、忍びの頭が貿易会社の社長になった。これには畠山義就も呆れた。義就には片田順から知らせてあった。
<あの時、始末してしまわなくて、良かった>
もちろん義就が藤林友保の素性を他人に口外することは無い。将来利用価値があるだろう。細川に替わって、義就自身が琉球貿易に加わることが出来るかもしれぬ。
表面上、南洋社の琉球貿易は継続するが、実体としては片田順が、琉球貿易を独占することになる。
京都では、祇園祭の準備が進んでいる。応仁の大乱で山鉾の半数は焼け果ててしまった。山鉾を失った町は、記憶を頼りに鉾の再建に取り組む。
将軍義政が、花の御所に保管されていた『久世舞車』という山鉾を取り出して来て、ホコリをはらわせる。このようなことには熱心だ。
『山』または『作山』を作る者達もいる。青森の『ねぶた』のような造り物だ。竹を曲げ、和紙を貼って造る。
まだ、復興もままならないので、大乱の前のような豪華さを望むことは出来ないが、それでも今出来る限りの想いを込めている。
『鷺舞』など、山車の周囲で舞う踊りを練習する集団がいる。昼間精一杯働いたあとに、夜になって松明を立て、その明かりで群れ踊る。
応仁の大乱の前には、すでに六十基もの山鉾があったという。その側面の板には岩絵具でさまざまな絵が描かれていた。
絵の題材は能や仏話の一場面である。
この山鉾の側面には、やがて現代の山鉾に見られるように遠くペルシャ、インドなどで織られた絨毯が飾られるようになる。
これらの絨毯は、片田達が琉球貿易、さらには南洋貿易で伝えた品であった。
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この後、エピローグが数話続きます。
八月五、六日はお休みをいただきます。
エピローグは八月七日月曜日から掲載いたします。




