象(ぞう)
『うなぎや』は二日おきに四回、下限値付きの成行で百株ずつ放出した。『南洋株』は一株五百二十貫まで値を上げた。
『うなぎや』の手元に残った南洋株は百株までに減った。この百株はすべて一枚が一株の株券だった。
一枚一株の株券は、売りやすいので最後に残しておいたものだ。それも全て売りつくしてしまう。
『うなぎや』店主、沼野鯉次郎は故郷に帰ったという。『うなぎや』店舗は、三名の店員が残り、まだ分割債を交換しに来ない者のために仕舞営業を続けていた。
『うなぎや』による大量の南洋株放出が終わった後、取引所に売りに出される南洋株は減った。減ったのではあるが、南洋株が出てこないというわけではなかった。
五百二十貫までに値上がりした南洋株は、さすがに一月で二倍になるというような値上りの速度を保てない。
高利で借金をして南洋株を購入したものが、損を覚悟で南洋株を手放し始める。
彼らは六文子から八文子という高利の借金で株を買っていた。株価が一カ月の間に二倍にならなければ儲からない。
応仁四年(西暦一四七〇年)の五月が過ぎ、六月になる。取引所では、南洋株が一進一退している。
そんな時に、一つの知らせが片田村に届いた。第一艦隊三番艦『球磨』に率いられた四隻の片田商店貿易船が琉球から帰ってきたという。
応仁の大乱後、堺の戎島造船所では、輸送船の建造が行われていた。戎島で最初に建造された輸送船四隻が、『球磨』の護衛の元、黒潮を遡って琉球に行った。
四隻ともに竜骨式帆船であった。太平洋の波濤に耐える頑丈さを持ち、向かい風に向かって六点(約六十七度)まで間切ることが出来る。
脆弱で八点(九十度)までしか風上に向けない従来の和船では、とうてい出来ないことだった。
和船では、琉球に行くことは難しい。従って『南洋社』の貿易船は、琉球の王族や高位の者が持つジャンク船で貿易を行っていた。
日本からは、琉球で不足する鋳鉄や、農機具や刀剣などの鉄製品を輸出し、琉球からは明や南洋の産品を輸入する。
これを細川勝元に持ち掛けたのは、堺の琉球商人、阿麻和利だった。当時は飢饉であったので、最初は南洋米と鉄との貿易だった。
阿麻和利は、片田順との干しシイタケ取引を最初に始めた琉球人で、この頃にはかなりの財をなしていた。
船を持たない琉球商人達より有利な条件で、王族達の持つジャンク船を借り上げれば、琉球貿易を独占できる。
このため、ジャンク船を持たない琉球商人達は、阿麻和利に頼んで、南洋社の船の空いたところに彼らの商品を積むしかなくなっていた。
そのような商人の中で、泰刺、阿加尼施などという名前の琉球人を案内役に立てて、片田商店の貿易船が現地で取引を行った。
日本から持っていった商品は、鉄製品などとは比較にならない程高額で取引される干しシイタケや硫安である。当然持ち帰ってきた商品も、見たことが無い程の高級品が揃っていた。
堺に帰港した片田船から、様々な珍奇な品が陸揚げされる。
絹織物、陶磁器、生糸、蘇木、胡椒、象牙等だ。蘇木とは蘇芳の木のことで、赤い染料の原料になる。
明の書画、当時はティムール朝であるペルシャの絨毯、セイロン島の色鮮やかな宝石なども運んできた。
最も人目を引いたのは、生きた象であった。
アユタヤ人と自称する異国人の調教師とともに来日した。誰が象など輸入したのであろう。
日本人が象を見るのは初めてではない。まず仏教の経典や仏画などから象という生き物がいるということは知識として知っていた。普賢菩薩は象に乗っている。
また、六十年程前、応永十五年(西暦一四〇八年)若狭国小浜に入港した南蛮船には象と、そのほかに孔雀やオウムが積まれていたという。
南蛮船といってもポルトガル人ではなく、東南アジアの華僑の船であったらしい。
この時の象は京にまで上り、時の将軍足利義持に、孔雀やオウムとともに献上されたという。義持は足利義政の四代前の将軍だ。
象を献上された義持は、敬意の印として受け取るには受け取ったが、どうも持て余したらしい。三年後には、この象は義持から朝鮮の太宗に、さらに贈られた。
詳しい事は残されていないが、厄介払いのようにも見える。
太宗とは、訓民正音を制定したことで有名な世宗の父親である。
象を貰った太宗が喜んだのか、迷惑だったのかも記録には残っていない。
ただ、太宗が象を受け取ってから七年後に、朝鮮が対馬に攻めて来た(応永の外寇)。もしかしたら、太宗も象には手を焼いたのかもしれない。
何を話していたのか。そうだ、堺に象が上陸した話だった。
片田商店の竜骨船が琉球まで航海し、一隻も失わずに堺に帰ってきた。このことは一般の人々には喜ばしい事だった。しかし、一部の者には衝撃であった。
『南洋社』のジャンク船でなくとも、琉球まで行き、無事に帰ってこられる。
その日から、『南洋株』が急落を始めた。




