うな重
「これは、突然だな」『うなぎや』の店頭に集まった顧客の一人が言う。
「国に帰るって、親が病にでもなったか」
「さてな」
「これから、どうする。『うなぎや』が廃業するとなると、分割債が買えなくなるのか」
「いやぁ、同業者の誰かが引き継ぐだろう」
そのとおりだった。同業者の中で、規模を拡大していた二つの店が、『うなぎや』が放出する南洋社株の一部を購入し、十分の一債、百分の一債を発行した。
『うなぎや』の沼野鯉次郎、すなわち野村孫大夫は、五月に入って所有している南洋株を売り続けている。
『うなぎや』の札は、『南洋株 一株 指値 四百八十貫』ないしは『十株 指値 四千八百貫』で一貫していた。
「『うなぎや』は、なぜ四百八十貫の指値で売りに出すのだ。成行で出せば、もっと高値で売れるだろう」『うなぎや』店頭で客が店員に尋ねる。
指値とは、この場合売却価格を指定して売る事である。成行とは売却価格を指定せずに売りに出すもので、その場合には取引所での競りになる。その場で最も高い価格を提示したものに株を売却するので、値上がり傾向にある現在ならば指値よりも高値で売れるであろう。
「店主が言いますには、五月一日の四百八十貫は、これまでの最高値です。いままでご愛顧いただいたお客様は、皆様それより安い価格で分割債を購入いただいていますので、当店がこの値段を維持すれば、お客様は皆、多かれ少なかれ利益を出すことができます」
「成行で売りますと、場合によっては損をされるお客様が出てくるかもしれません。ご愛顧いただいたお客様への最後のご奉公だ、と申しております」
「そうなのか、『うなぎや』の店主、会ったことは無いが、いいやつじゃないか」
店員の説明は、野村孫大夫の本音であった。
本音ではあったが、裏にもう一つの目的があった。そちらの方は、もう少しすればわかる。
『おたき』さんの『しろむすび屋』。
二人の男が卓子を挟んで向かい合っている。二人は胡瓜の糠漬けをかじりながら、昼間酒を飲んでいる。
酔うまで飲むつもりはないらしい、一本の銚子に入った冷酒を二人で分けている。
ウナギが焼きあがるまでの間の食前酒なのだろう。
片方の男は、指にいくつもの胼胝が出来ている。この男は版画工だった。もう一人の男は顔や腕に墨が付いている。こちらは印刷工だった。二人ともこの数か月大車輪で働いている。
分割債券を発行する者が相次いだためだ。
気候も暑くなってきた、ここいらで体力を回復しよう、ということで『うな重』を奮発することにした。
『うな重』は出来上がるまでに少し時間がかかる、その間に一杯やろう、ということのようだ。
『うな重』は、醤油が出来た時に、醤油を使った料理の一つとして、片田が『おたき』さんに製法を伝えた。
片田以前のウナギ料理は、ウナギのぶつ切りを串に刺して塩焼きにするか、みそ焼きにする、というものだった。
ウナギは脂が多い、それをぶつ切りにして塩焼きにしても、中まで塩が浸み込まず、油と共に滴り落ちてしまう。
片田はウナギを縦に半分に割き、それを串に刺して、タレに付けながら焼いて見せた。
このようにすると、十分にタレの味が身に浸みる。
タレは、醤油、酒、水飴を混ぜて煮締めたものだ。
「『南洋』買ったか」
「『南洋』分割債か、いや買っていない。分割債を刷るのが忙しい、それどころではない」
「俺もだ、債券の版木を彫るのに忙しい」
「職場で、毎日大量の分割債が積みあがるのを見ていると、そんなもの買えるかという気分になる」
「そうだろうな。俺も『南洋』とか『分割債』という文字を彫りたくなくなった。わかんねぇかもしれねぇが、たまには他の文字を彫りたくなる」
「そんなもんか」
「なんか、『南洋』って、あれに似てねぇか」
「あれって、なんだ」
「なんだっけか。大乱の前にあったろう」
「ああ、『丑松』か」
「そうそう、それだ。『丑松の盆栽崩れ』に似ているだろう」
「そうだな、やっぱり値崩れするのかな」
「そりゃ、たぶん値崩れするんだろう。みんな忘れちまったのかな、丑松崩れ」
「お待ちっ。秘伝のタレ、ウナギの縅焼きだよっ」『おたき』さんが勢いよく『うな重』を運んできた。
縅とは、鎧の袖など造作の事だ。蒲焼と見た目が似ていないこともない。




