借金(しゃっきん)
応仁四年(西暦一四七〇年)一月末、『うなぎや』は発行済みの『南洋<忽>』を、ほぼ回収した。
一月末までに『うなぎや』に持ち込めなかった『南洋<忽>』については、しばらく猶予期間を設けて、その時々の時価で引き受けるともした。
このとき『うなぎや』に集まった『南洋<忽>』は八万七千枚にも上ったという。
『うなぎや』は、他の債権と合わせて、南洋株一株分を寄せる。この部分について、担保として保有していた南洋株一株を売却した。一枚十株にまとめる前の株だ。
購入価格は三十五貫くらいだったが、百二十貫の値がついた。最近南洋株の実物、それも一株額面の株が取引所に出されることが少なくなっていたからだ。
購入したのは、京都の土倉、角倉だった。角倉は嵯峨に拠点があるため、乱の被害が少なかった。
当主は吉田忠兵衛という。後に出家して宗臨と名乗る。
父の代から医業で室町幕府に仕え、財を成した。その財で、酒屋を営み、近年では土倉業にまで進出していた。
角倉了以の曽祖父である。
さらに、『うなぎや』は『南洋<糸>』についても、二月末までに回収すると発表した。子供たちが、『南洋<糸>』にも手を出し始めているからだ、としていた。
『南洋<糸>』は南洋株十株一枚の一万分の一である。時価でいうと百二十文(現代ならば九千円程)だ。子供がそんな額を左右できるのかと思うが、子供達もしたたかだった。
何人かが集まって『南洋<糸>』一つを購入するという作戦だった。
『うなぎや』の主人が、債券購入目的での、元服前の子供の入店を禁止した。売却については、これまでどおり応じる。
「藍屋の南洋株は、どれ程になりましたか」『うなぎや』社長、沼野鯉次郎を名乗る野村孫大夫が藤林友保に尋ねる。
「うむ、まだ三百株程残っている。全て売却するまで、もう少し待ってくれ」
「最近、『うなぎや』と同様の商売を始める者が出てきました」
「南洋株を分割した債券を売っているのか」
「いえ、『うなぎや』の『南洋<厘>』、『南洋<毛>』を担保にしています」それぞれ南洋株十株券一枚の百分の一、千分の一債券である。
「考えたな」
「はい、それで、一万分の一、十万分の一債券を発行しています。『南洋<糸>』、『南洋<忽>』の後を埋める商品です」
「ろくなもんではないな」
「今はまだ規模が小さいので、どうということもありませんが、次第に大きくなってくるでしょう。そうなったときには『うなぎや』の影響力が低下します」
「よし、解った。南洋株の売却を急ぐことにしよう」藤林友保が言った。
翌日から、藍屋が十株、二十株と取引所に南洋株を出すようになった。買い手筋は『うなぎや』、土倉、商人達である。急速に拡大しつつある『うなぎや』同業者が競り落とすこともあった。
貨幣経済にも慣れていない室町時代の人々である。六文子から八文子、すなわち月あたりの利息が六十パーセントから八十パーセントなどという高利がまかりとおり、金銭貸借で極端な富者と転落してゆくものが多数出てきている時代だ。
それ程に未熟で、貨幣経済に慣れていない人々が、さらに株式などを扱い始めた。
六文子、八文字の高利で借金をして南洋株を購入するものが現れる。『うなぎや』の同業者達には、そのようなものが多い。
彼らは、一月の間に南洋株が倍にならないと、採算があわない。裏を返せば、それほどに急騰するだろう、という思惑に取りつかれている。
そのような者達は、買いの指値も荒くなる。
四月に入ったころには、南洋株が一株二百三十貫になった。この率で上げていけば六文子、八文子で借金して南洋株を買っても儲かるだろう。
それがいつまでも続けば、という条件付きだが。
借金をして南洋株を買う者が急増した。
そろそろ、頃合いだ。これを見た鯉次郎こと野村孫大夫が、そう思った。
五月一日、南洋株は四百八十貫を付けた。借金をしてまで南洋株を購入した者達はいずれも、歓喜の声を上げる。
翌日の五月二日。
『うなぎや』の店頭に一枚の紙が掲示された。
“急に国元に帰らなければならない用事が出来た。ついては『うなぎや』を畳むことにする。現在貴兄諸君の手元にある当店の分割債券については、五月中に当店に持ち込んでいただければ、『南洋株』直近の取引成立価格で銭または紙幣と交換する。
短い間ではあったが、ご愛顧に感謝する。
『うなぎや』店主 沼野鯉次郎 拝“




