陥穽(かんせい)
「それは、そちが考えたのか」細川勝元が薬師寺元長を睨みつける。
「は、そのう、藍屋と相談しながら、考えました」
薬師寺元長は、ウソをつききれぬ男のようだ。
「ふうむ」そういって勝元は考え込む。
確かに守護債を南洋社に引き受けさせれば、利払い(期待利益払い)を猶予させることができる。市中の守護債の半分、三分の一でも南洋社が持てば、ずいぶんと楽になる。それはそのとおりだ。
しかし、細川勝元は堅実な男であった。
<やるにしても、なにかの歯止めが必要である>そう考える男だった。
「『南洋社』の新株を発行することは、認めよう。しかし新株の発行額は、買い取った守護債の額面価格の総額を越えないようにせよ。そうであれば認める」
新株を発行することは許可するが、上限を設けるということだ。
「承知いたしました。では、さっそく『うさぎや』と相談し、新株発行の準備を始めます」
勝元が発行した守護債は一枚の額面が百貫(現在の価値で、およそ七百五十万円)だった。それに対して、『南洋社』株券一枚の額面は十貫であり、現在の取引相場は三十貫前後だった。
守護債の発行枚数は一万枚、総額百万貫分の守護債が土倉や問丸、寺院などに保有されていた。
現在の時価で取引されると想定すると約三万三千枚の株券に相当する。これが上限だ、そのように細川勝元は考えた。
実際には、守護債が全て南洋社株に交換されるとは思えないので、実際の発行数は、これより少なくなるであろう。守護債は月二文子の利息(期待利益)が保証されている。
また、守護債は記名式だった。債券の裏に所有者の名が書かれており、この記名者以外が勝元から払戻を請求することは出来ない。
戦という不安定な時期に、守護債が好まれた理由の一つでもあった。
それに対して、株券は価格が変動し、損をする場合もある。
『南洋社』株は、長禄・寛正の飢饉の時に米の輸入で、一時大きく値を上げたが、その後は安定していて変動する要素もなかった。薬師寺元長の構想では、新株を発行して新船を調達するといっているが、取り扱う商品は現状の延長線上にある。それほど変わり映えしないだろう。
片田村の取引所。
「売り、細川守護債十枚、買い、南洋社株、三十三枚」藍屋こと藤林友保の代理人が取引板に掲示する。
「おう、記名の件は親分同士で解決した。買うぞ、南洋社株で取り引きする」『南洋社』の代理人だった。
「俺も守護債を五枚、南洋株十六枚と交換するぞ」資産という言葉とは縁のなさそうな大柄な男が守護債を売りに出した。下柘植の大猿だった。藤林友保の自作自演である。この守護債も取引が成立した。
翌日も、藍屋の代理人が細川守護債を小出しにしてくる。一方で南洋社株を銭や紙幣でも購入した。
「買い、南洋社株百枚、銭または紙幣、指値三千五百貫」
こちらは、南洋社株価を釣り上げているようだ。
大和片田村の取引所で細川の守護債が取引されていることは、京都の土倉や問丸でも話題になった。
「片田村取引所で、守護債が売れるらしい」
「ああ、聞いたことがある、記名式なのに取引が成立しているらしい。なんでも半分以上は南洋社株との交換だそうだ」
「南洋社株といえば、最近値があがっているようだな」
「そうだ、副社長の備後守(薬師寺元長)様が、琉球航路の船を増やすと、ブチ上げたらしいからな」
「土佐に滞留していた南洋品が、停戦で都に運べるようになったのも大きい、先月の南洋社はかなりの粗利を稼いだらしい」
以前にも書いたが、ここで再度書いておく。取引所で寺社株式等の証券を取引してもらうためには、売上、支出、粗利、貯蓄、債務を毎月末閉めで報告することが義務付けられていた。楽民銀行の規定からの流れであったから、片田村付近の組や会社には抵抗なく受け入れられている。
南洋社のような京都で設立された会社もそれに従っていた。
翌月の『南洋社』の収支報告に、世間は驚く。
南洋社の売上、粗利、貯蓄が大幅に増えた。
「南洋社、戦が終わったとたん、業績が急回復したじゃないか。京都に持ち込んだ商品が売れ始めたのか」
この時代、まだ簿記でいう所の仕訳などはない。彼らの会計処理は以下のようなものであった。
・発行した新株については、その額面を債務とした。さすがの彼らも株券を持参したものに額面額の銭を支払わなければならないことは、わかっている。
・新株を銭と交換した場合、その銭は売上と粗利に反映された。株の取引額と額面額の差を粗利とした。
・新株を細川守護債と交換した場合には、これの額面額のを『貯蓄』とした。
昨年末、藍屋与兵衛こと藤林友保は、薬師寺元長に、以下のように言っていた。
「売ることは売るのですが、それに加えて守護債と『時価』で交換するのです」
この言葉の『時価』というところに、友保の罠があった。正確には野村孫大夫が謀った陥穽である。




