下戸(げこ)
応仁二年(西暦一四六八年)も十月になった。白い紗を拡げたような巻雲が数本、青空に横たわる。
気持ちの良い秋の日だった。
細川勝元邸の西の対、薬師寺元長が細川家出入りの商人達と酒宴を催している。これは彼の仕事だ。有力な商人を手元に引き付けておかなければならない。
主人の細川勝元は室町第、すなわち足利将軍の所にいる。
上洛した片田商店軍は、二条のあたりに北を向いて布陣している。その北方では西軍が東軍と対峙している。
昨日、片田商店軍から軍使が来た。室町第を出て、勝元邸に退去せよ、とのことだった。もし退去の際に西軍が攻撃してきた場合には片田商店軍が西軍を攻撃するので、安心して退去してよい。とも言ってきている。
「もっと飲まれよ、藍屋。そちが酔っているところを見たことが無いぞ」そういって、薬師寺元長が、自らの懸盤から銚子を取り、藍屋与兵衛に酒を勧める。
「そちのように頭の回る男が、少し酔って乱れて、面白いことをいうのが、いと『をかし』、と清少納言も言っておる」
『枕草子』にそんなこと、書いてあったか。
『枕草子』は確かに『をかし』を語る文学なのだろう、いま数えてみたら、全体で十二万文字くらいだが、そのなかに『をかし』という三文字が四三八回も出てくる。
十二万文字を三文字で区切ると四万単位になるが、そうすると、文全体の百分の一が『をかし』という単語で満たされていることになる。
今は、『枕草子』がテキスト化されているので、こんなことが簡単に出来る。
それにしても、もし、私が自分の文章の百分の一を『おもしろい』という単語で満たしたら、誰も私の文章を読まなくなるだろう。清少納言は天才である。
「そうじゃ、そうじゃ、わしも藍屋が酔っているところを見てみたい」脇の『池沼屋』も囃し立てる。
『池沼屋』の向こうで笑っているのは『うさぎや』、野洲弾正忠だ。『南洋社』の社長である。
「いや、かんべんじゃ。わしゃ酒に弱い。下戸なんじゃ」藍屋与兵衛が頭を抱える。最近は眼鏡が板についてきた。
「のぉ、藍屋、十日後にまた別の宴を開く。今度は女猿楽を招くことにしておる。ぜひ、来てくれ」
「あ、いや、申し訳ありませぬ。実はしばらく西国に行くことになっておりまして」
「西国って、なんだ。寺院住を売りに行くのか」
「さようで」
「こいつぅ、儲かってよろしいな」
西に面した庭にいた男達が「おおっ」という叫び声をあげる。
「なんだ、どうした」薬師寺元長が庭に向かって叫ぶ。
「備後守様、あれをご覧になってください」庭の男が青空を指さす。
元長が庭に向かって駆け、空を見上げる。まだ半分素面のような動作だ。
空には、南から北に向かって白い雲が一本延びていた。西からの弱い風に流されてゆっくり移動しているようであった。
「なんだあれ」
「船岡山の方もご覧になってください」
船岡山の頂上付近に白い煙がたなびいている。あのあたりは一色氏の砦になっていたはずだ。元長が、なにがおきているんだ、と目を凝らしていると、背後でシューッという音が聞こえ、男達が声をあげる。
振り返ると、南の二条あたりから、白い煙を引きながらなにかが空に向かって登っていく。目で追っていくと、これも彼らの頭上を通り過ぎて、船岡山にあたった。
なにかが、激しく爆発する。あれでは一色の兵は、たまるまい。
どうしたんだ、そういって酒客達も出てくる。『池沼屋』も『うさぎや』も空に向かって指をさす。
<始まったか>藍屋与兵衛こと藤林友保が思う。<これで京都での戦も仕舞いだな>
「山名城にぶちあたるときは、すごいもんじゃが、こんなに間隔があいているんでは、そのあいだに逃げられるじゃろ」誰かが言う。山名城とは、当時の人が船岡山をそう呼んでいた名前だ。
<今までは、狙いを定める試射だ。本番になったら、腰を抜かすぞ>
「!」
十本の煙が同時に立ち上る。わずかな間をおいて、また十本、さらに十本。
次々と十数回もの白煙が立った。蒼穹に白い帯のような橋が架かる。
船岡山に次々と爆発と紅蓮が拡がり、山が見えなくなる。
皆、口を開けたまま、無言だった。酔いが醒めてしまった。
あれに立ち向かえるものは無い。誰もがそう思った。




