米価(べいか)
先に米一石が一貫と、ざっくりと言ったが、その年の豊作不作、生産地と消費地、収穫期と端境期などで異なる。傾向は以下のようになる。
・豊作の年は安く、不作の年は高い
・秋の収穫期は安く、春先の端境期は高い
・生産地では安く、消費地の京都は高い
端境期とは、この場合には秋の米の次に、春の麦が収穫される直前のことを言っている。食料備蓄が少なくなるので、米が高額になる。
手元の新書に当時の米価の例が出ていたので、下に示す。新書の著者の『参考文献』によると、そのさきの引用元は「百瀬今朝雄『室町時代における米価表』『史学雑誌』六六-一」だそうである。
矢野庄とあるのは播磨国矢野庄のことであり、東寺の荘園であった。『たまがき』の嘆願書などとともに東寺により保管されていたので、現在知ることが出来るのであろう。
下線は、タブがうまく表示できないので、入っている。見づらいが御容赦願いたい。
単位(文)
●矢野庄での一石あたり米価
____________収穫期_________端境期
応永十八年_______五二六(三~十月平均)_一〇五三文(翌年二月)
(一四一一年)
応永二十一年______六三九(十月)_____七五二(翌年二月)
(一四一四年)____六七七(十一月)
●生産地と消費地の価格差(一石)
____________矢野庄_________京都
応永二十年十二月____六五四_________九三七
(一四一三年)
応永二十一年十一月___六七七_________九五二
『室町時代』脇田晴子 中公新書776
細川勝元は、京都における来年の端境期の米価は最低でも一石あたり一二〇〇から、一四〇〇文になるであろうと予想した。兵が京都に集中しているからだ。
なので、従来現地の惣にまかせていた米の販売を停止し、米座を通さずに直接京都で販売すれば、かなりの利益があがり、守護債の返済にあてられると考えていた。
領国すべてで行うことは出来ないにしても、少なくとも細川家の直轄地だけでも、そのようにするつもりだった。地侍達から現地価格で購入して、京都に運ぶという方法もある。
守護債を発行した時点では東軍が京都の西軍を包囲しており、包囲の外側では東軍が小競り合いを起こし、西軍の入京を防いでいたので、これは成算があった。
ところが、八月末に大内が摂津国に入り、尼崎と兵庫を押さえられた。直後には片田商店に堺と和泉国を取られた。西国から米が入ってくる道が途絶えた。
片田商店の艦隊が淡路島南北の水道を閉塞してしまう。四国の米は、赤松正則の播磨国に陸揚げしたところで立ち往生してしまった。
大内の上洛は予想していたが、それでもまだ堺があると思っていた勝元にとっては、片田商店の動きは、まったくの予想外だった。
四国の米は、播磨で米座に売るしかなくなった。播磨での米価は、上表で見た通り、京都より安い。
北陸道の米も、ウツロギ峠で安宅丸達によって、止められた。尾張国には斯波義廉軍がいて、三河国の米も上京できない。
結局、勝元が京都で直接販売出来た米は、丹波産と摂津産の一部のものだけであった。それでも洛中の米価が一石二〇〇〇文を越すことになったので、かなりの利益を得ることになる。
「で、返済にあてられるのは、いかほどになった」勝元が薬師寺元長に尋ねる。元長は、後に摂津国の守護代になる切れ者である。『一基二百文』章で、離宮八幡と結託して鏡に魔性を宿らせた男だ。
現在は南洋社の副社長を兼ねており、琉球との鉄貿易も行っている。
南洋社の社長は、今でも『うさぎや』こと野洲弾正忠だ。
琉球から米を買う、という事業は飢饉が収まったときに役目を終えた。
最近は、鉄を琉球に運び、帰る便で香木や白磁などを持ってきている。
「は、洛中の米価が上がったおかげで、例年に加えて三十万貫程の歳入がありました」
「と、すると預状の利息……もとい、『期待利益』分は調達できたわけだな」
「はい、さらに土佐国の年貢を鯉券になされたのは、英断でございました。おかげさまで鯉券を求めるために民が銭を放出することになり、一息つくことが出来ました」
「そうであろうの」
褒められてうれしくないわけがない。
「そうすると、米価の上昇で利息……もとい『期待利益』無しで、一年間百万貫を調達できたということになるな」
「まことに、お見事でございました」
「では、今年も継続しようではないか。現在発行している預状の約月を、さらに一年延長したいと預状所有者達に伝え、今年の『期待利益』分の銭を払ってやるが良い」
「さて、所有者全員が延長に同意しますでしょうか」
「どういうことだ」
「一年前とは、形勢が少し変わっていますので、全員が継続するかどうか、わかりませぬ」
確かに、一年前は細川が京都の西軍を包囲していたが、現在はその東軍を片田商店艦隊が、さらに包囲して兵も兵糧も京都に入ることが出来なかった。
「なんだと、そのような事を申す者は、この邸に連れてまいれ、わしが直々に説得してやる」
「承知いたしました」そういって薬師寺元長は引き下がっていった。




