手元不如意(てもと ふにょい)
文正二年(西暦一四六七年)三月三日。
二日後の三月五日には、京都で御霊合戦という戦が起きたことはよろしくない、ということで応仁に改元されるが、この日はまだ文正のままである。
善かれと思い、応仁に改元したのだが、これが、日本人ならば知らぬ者がいない程の、歴史に残る元号になってしまう。
山名宗全、畠山義就などが、節句のために、義政の『花の御所』に参賀する。
武将が『桃の節句』で、浮かれて出歩くか。そうではない。
三月三日が女の子の、五月五日が男の子の節句になったのは、江戸時代になってからである。
元々は上巳節会といい、平安時代には天皇が主催した宴会であった。曲水の宴をやる。
小川に盃を浮かべて、自分の所に来るまでに詩歌を一首読む、というあれである。
いま、確認のため、Wikipediaを調べてみたら。最近では、一首詠むというのは後世に言われ始めたことで、平安時代にそのようなことを行っていたかどうか、怪しいのだそうだ。
そうだとすると、小川に盃、というのは、ただの回転寿司のレーンということなのか。
それはさておき、そういうことなので、この時の節句は将軍が主催する宴である。宗全とか義就とか、むさくるしい武者が参加してもおかしくない。
細川勝元は御所に参賀しなかった。
彼は開戦の準備をしている。瀬戸内や四国にある彼の領国では兵を集めている。赤松正則、斯波義敏、武田信賢などの細川党の武将にも戦の準備を促す。
山名宗全の屋敷と、細川勝元の屋敷の間を流れる小川を挟んだ両側を中心に、街路を掘って、空堀を作っている。主だった屋敷には材木を井桁に組んだ井楼が立ち始める。
ふたたび京都で戦をする気、満々である。
四月になり、京都を囲む地方で細川方の大名が、山名方に戦をしかける。山名方の兵が上洛するのを妨害するのが目的だ。
越前、尾張、遠江では斯波義敏が、播磨では赤松正則が、若狭では武田信賢が兵を挙げる。伊勢にも細川党が攻め込んだ。
「いたるところで戦が始まってしまいましたね」犬丸が小山七郎さんに言う。
「これは、大きな戦になるであろう。建武・明徳以来の合戦になるかもしれぬ」七郎さんが呟く。彼が言っているのは南北朝の争乱のことである。
「これまで士官を育て、銃を作って、騎兵を鍛えてきましたけれど、本当に使うことになるんですね」
「戦をしたことがない若者は皆そう思う。まさか本当に戦になるとは、とな。そんなもんじゃ。始まるときには、あれよ、と言っている間に始まる。止めることはできぬ」
「俺たちの村も戦うんでしょうか」
「さてなぁ、村長がどのようにお考えなのか」
「どうだと思われますか」
「うむ。村長は一万人の軍を作れ、とおおせられた。一万といえば、一国が動員する軍に近い。ということは単に村の防衛をする、というのではなく、国相手の戦をする、ということじゃが」
「どこかの国と戦うのですか」
「そういうことになるじゃろう」
応仁元年五月に畠山義就が抱えている兵は大和、河内、熊野の義就派を合わせて七千名とされている。
この当時の一万人といえば、国同士の戦の規模だろう。
五月二十六日、京都で細川の東軍と山名の西軍が衝突する。合戦は翌日まで続き、二条以北の多くの寺社・屋敷が焼亡した。
戦はこれで終わったわけではない。
両者はさらに長く空堀を掘り、無数の井楼を建て、次の戦闘に備える。この時、『応仁記』によると、東軍は十六万、西軍は十一万の兵力であったと言われている。
この数字は過大であるかもしれない、それにしても義就の持つ兵力だけでも七千名であるならば、両軍合わせて十万を超える兵力が都に集中していることは間違いあるまい。
それが、六月が過ぎ、七月を越し、八月になっても、そのままである。
そのままであるどころか、八月下旬には、大内政弘軍三万が西軍に加わる。
当時の朝鮮通信使、申叔舟の『海東諸国記』によると、博多には一万戸の住民がいたという。独り者もいれば、大家族もいるだろう、一戸平均五人とすると、五万人になる。
仮に『応仁記』の数字が正しいとすると、東西両軍で二十七万になる。博多の港が五つ、京都に引っ越してきたようなものだ。
しかも、博多商人のように商売をして富を生み出すのではない。兵は消費と消耗しかしない。
両軍の米蔵にある米はどんどん消費され、土倉の銭も泡のように消えていったであろう。
細川勝元の財布も、手元不如意になってくる。いよいよ守護債を発行しなければならない。




