鯉券増刷(こいけん ぞうさつ)
文正元年(西暦一四六六年)の師走も押し迫るころ、畠山義就が、山名宗全に招かれて上洛する。
河内国で再編成した多数の兵が義就に従っている。
山名と畠山の軍を合わせれば、畠山政長側は明らかに劣勢であった。
将軍足利義政は義就側有利とみて、政長を管領職から罷免する。管領職とは、今で言う所の総理大臣のような役職である。
見限られた政長は、前例にない動き方をした。
このような場合、政長の立場にあるものは都落ちする。畠山義就も将軍の信を失った時には、そのようにしている。ところが、政長は自邸に火を放って洛中で兵を挙げた。
京都で戦を始めるなどと言うことは、あまり例がない。
西暦七九四年に平安京遷都がなってから、京都が戦場になるなど、数えるほどしかない。一二二一年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府討伐に失敗した承久の乱くらいではないかと思う。このときは幕府軍が宇治川を越えて洛中に侵入し、寺社や屋敷に火を放った。
鎌倉時代末の元弘の乱の時には、京都では六波羅探題が陥落した程度であった。
以来百年以上も、京都が戦火に焼かれたことはない。
それが、ここに来て政長が挙兵し、御霊社に立てこもる。義就がこれに対して軍を持ってあたり、本格的な戦闘になった。
戦は一日で収まったが、このことは将軍権威への挑戦である。なにかが崩れ始めたことのあらわれであった。
梅の枝にメジロがまとわる。その様子を見ていた細川勝元が言った。
「池沼屋、あと、三千貫程、刷ってくれぬか」
池沼屋と呼ばれた対面している商人の顔が曇る。
「だめか」
「すでに、五千貫も刷っております」
池沼屋が言っているのは、彼の土倉が発行している紙幣、池沼銀行券のことである。細川勝元の御用商人である池沼屋が発行しているので、勝元の鯉好きから、通称鯉券と呼ばれている。
「土倉の銭は二千貫程であります。すでに残高の二倍以上もの鯉券が市中に流通しているのです。さらに三千貫も刷ったならば、いざというときに大変なことになります」
いま三千貫刷ったとすると、倉の銭よりも六千貫も多い紙幣が流通する、これは信用にかかわる、そう言っているのである。
一文七十五円とすると、千貫で七千五百万円である。六千貫だと四億五千万になる。
地方自治体の予算が一兆円を超す現代の我々から見ると大した額ではないように見える。彼らの時代と我々とでは異なるのだ。
数年前、足利義政が遣明船を派遣することを決めるが、そのための資金一千貫を用意できずに、幕府が大内教弘に借金をしている。
この時代の千貫は、それほどに価値がある。
「その、いざ、ということにならぬように、三千貫が必要なのだ。近いうちに戦がおきる、そのときのためじゃ」
「戦がおきるのでしょうか」
「おきる」
この春、細川勝元自身が、地方の各地で戦を仕込んでいるのであるから、自信を持って断言する。
「勝てばよいのだ。そのためには銭が必要だ。それに戦になれば、そちも儲かるであろう、六千貫の銭など戦になれば、すぐに集まってくる」
池沼屋は淀川の鯉の専売権を獲得して拡大してきた。たまたま鯉好きであった細川勝元の所に出入りするようになり、彼から幾つもの商品の専売権を得て土倉を成すまでに育ってきた。
鎧、腹巻、弓矢、太刀、薙刀、馬鞍などの武具を専売し、京七条、宇治、醍醐あたりにいくつもの工房を持っていた。
戦になったときに、武具の座を持っていれば戦争に有利になるであろう、という勝元の思惑があった。
戦になれば、池沼屋の武具が敵味方に大量に売れる。そうすれば、ここで多少紙幣を増刷していても、回収できるに違いない。
勝元は、そのように思っていた。
「そのように、うまくいくでしょうか」
「戦というのはな、池沼屋、ここぞ、というときにどれだけ兵を集中できるかで決まるのじゃ。そのためには今の内から手を打っておかなければならぬ」
正月の御霊合戦のどさくさのとき、足利将軍は山名宗全に搦めとられていた。勝元は手も足もでなかった。それから今日まで着々と準備を重ね、浦上則宗の策に従って、地方での京都防衛網を築きつつある。ここが踏ん張りどころだ。
「承知いたしました。あと三千貫増刷いたしましょう」




