片田鏡の西進
寛正五年(西暦一四六四年)になる。
昨年の四月には嶽山城が落城している。畠山義就は吉野山中に逃れるが、その年の十一月には足利義政の実母、日野重子が逝去し、その百日供養明けの恩赦で義就は赦される。
赦されたとはいうものの、上洛することまでは許されていなかったので、寛正五年にも義就は吉野山中の天川村に潜んでいる。
この春、片田村で鏡が作られるようになった。
鏡が女性に売れることを確信した『あや』は、鏡が出来るようになるのと同時に京都に出て鏡屋を開く。
これは飛ぶように売れた。
売れたのは京都だけではない。全国どこでも女心に変わりはない。山口などの瀬戸内の地方都市、博多などでからも大量の鏡の引き合いがあった。
大橋宗長さんは、自身で主導して鏡製造の株式会社を興し、大量生産を開始した。
鏡というものは、古代には黒曜石や青銅板の表面を磨いたもので、現代の鏡に比べ鏡像はぼやけており、発色も良くない。
ガラスの背面に銀などの金属を付着させた、現代的な鏡が出来るのは、十四世紀のヴェネチアであったという。
ただし、この時の製法は、ガラス面に錫箔を拡げ、上から水銀を注ぐ、という方式。
ひと月程放置すると、錫と水銀がゆっくりと合金になりガラス面に密着するのだそうだ。
つまり製造に時間がかかる。
片田村の硝酸銀による銀鏡反応方式が発明されるのは十九世紀のドイツまで待たなければならない。
そのため、鏡は琉球でも明でも爆発的に売れた。
当時の明の皇帝は成化帝である。彼の後宮では寵姫の貴妃万氏が勢力を持っていた。
彼女は、自分以外の側室に片田鏡を使わせなかったという。
当時の明は北西部をモンゴル族のオイラトにより封鎖されていたので、シルクロードに出ることが出来ない。
そのため、片田鏡は海の道を辿って、西へ西へと取引されていった。
鏡は林邑、扶南、室利仏逝の港で取引された。
インド半島の南部にはヴィジャヤナガル王国があった。衰退したサンガマ朝から王位を簒奪したサールヴァ・ナラシンハは、その腹心の部下であったイーシュヴァラとナラサーの父子に、それぞれ片田鏡を贈ったという。
チグリス・ユーフラテス川が流れる地には、黒羊朝という王朝があった。バグダットの宮廷にある室内式の中庭の一つには、多くの片田鏡が敷き詰められて、池のようであったという。
片田鏡は、さらに地中海にも届けられた。
フィレンツェ北部にあるロレンツォ・デ・メディチの別荘の一つ、カレッジ(Villa di Careggi)の一室には、等身大の片田鏡が置かれた部屋があり、若き日のミケランジェロは、鏡に映る自分の姿を参考にして、彫刻を学んだという。
さらにイベリア半島に渡った片田鏡には、こんなエピソードもある。
当時のイベリア半島には四つの国があった。
西はポルトガル、中央部にはカスティーリャ、東のフランスとの間にはアラゴン、南のグラナダはわずかに残ったイスラム国家である。
カスティーリャ王国は、菓子のカステラの語源になったとも言われている。
カスティーリャにはイザベルという王女がいた。後にコロンブスの新大陸探検事業を援助したとして知られている女性である。
当時のカスティーリャ王は、彼女の兄、エンリケ四世であった。ポルトガルのエンリケ航海王とは別人物である。彼は親ポルトガル派であったので、妹のイザベルをポルトガル王室に嫁がせようとしていた。
しかし、イザベルはアラゴンの王子フェルナンドを夫にすると決めていた。
二人は兄には秘密にして、結婚を強行する。
そのフェルナンドがイザベルに渡したのが、片田鏡の手鏡だったという。
兄エンリケは一四七四年に病没する。
兄の残した娘ファナとイザベルとの間にカスティーリャ継承戦争が勃発するが、アラゴンのフェルナンドが支援してイザベルが勝利する。
この時点で、まだスペインという国は成立していないが、カスティーリャ=アラゴン連合王国は、二人の元で南部のイスラム国、グラナダを陥落させポルトガル以外のイベリア半島を統合する。
イザベルは後にコロンブスの新大陸発見の支援を行い、スペインの繁栄の礎をつくる。
イザベルは一五〇四年、夫のフェルナンドに先立つことになるが、死出の枕元には、フェルナンドから贈られた手鏡があったという。




