義政と義就
畠山の家では、義就を次の当主にしようとする父畠山持国に対して、持国の弟である持冨の長男、弥三郎を擁立しようとする勢力が出来ていた。
畠山持国は、弥三郎派の一人である神保国宗を攻め、国宗は失踪する。
弥三郎は不利を知り、管領で、後の応仁の乱では東軍総大将となる細川勝元に助けを求める。勝元は弥三郎を家臣である磯谷氏の屋敷にかくまった。弥三郎派の者たちは西軍総大将となる山名宗全を頼った。
力を得た弥三郎派は、畠山持国の屋敷を襲撃し、義就は失踪し、伊賀を経て河内に潜伏する。持国は隠居させられた。
将軍の足利義政は弥三郎の家督相続を一旦認める。しかし数日後、弥三郎をかくまった磯谷氏を処刑し、さらに諸大名を招集して宗全の討伐を命じる。
宗全は、但馬に隠退を余儀なくされる。義政は義就を京に呼び戻し、弥三郎は去っていった。
これが享徳三年(1454年)、義就十八歳の時である。
この時期の義政は義就の考え方を好んでいた。
少し前のことである。
「淀川を上るだけで、淡海乃海(琵琶湖)を渡るだけで、油の価格も、塩の価格もあがります。油は離宮八幡、塩は石清水八幡と興福寺一乗院が押さえているからです」
「そのとおりじゃ、そしてわしは、五山などに課税しておる」
「神社や寺院からの税収は、全体のいかばかりでしょうか」
「父の代からはじめたものだが、まだそれほど多いものではない。最近は土倉役などの商売からあがるものが多くなっている」
「坊主や神主がなにかやっているのでしょうか、なにもしていないのに、彼らの所に銭がいくのは理不尽ではないでしょうか。その銭を民が持てば不作の年に命をつなぐことができます。またその銭を幕府が持てば、幕府は強くなります」
「それはそのとおりであるが、どうすればそのようなことができると思うのか」
「寺社や貴族の力を削ぎ、座をなくします」
「だいそれたことを申すな」
「ひとつ戦をするごとに、ひとつ荘園を奪っていく、徐々に武士のものにしていくのです」
「気の長い話だ」
「気の長い話かもしれませんが、荘園を奪えば、彼らは兵を養うことができなくなります。寺社から兵力を奪えば、座を維持できなくなります」
「そうすると、どうなる」
「全国で、誰でも商売ができるようになります。百姓は自分の作った物を自由に市で売ることができるようになります。商人はそれを好きなところに運んで売ることができます。京の民はいままでよりも安く物を買うことが出来るようになります」
「いいことばかりのようじゃな」
「実際に働くものが国を豊かにしているのです。坊主や神主ではありませぬ。働くものが暮らしやすくなれば、国はさらに富みます」
「国が富むというが、幕府にはどうやって銭がはいってくるのじゃ」
「豊かになれば、課税の方法はいくらでもありましょう。それよりも今のままでは、民は一年二年の不作には耐えるかもしれませんが、数年続いた時には大量の餓死者がでることでしょう。一度そうなったら、田畑が荒れ、人が減り、年貢などの税収は長きにわたって大きく落ち込むことになるでしょう。民が数年の不作にも耐えられるように体力をつけさせるのが、まず必要な事なのです」
「それで、田舎市をやっておるのか」
「そうです。河内の民は、すこしずつ蓄えを持ち始めています」
「“抜け荷”もあるそうではないか」
「生活に必要なものは、すこしそのようにしております」
「嘘をつかぬのじゃな。わかった。おまえの話はおもしろい」
足利義政という男は、このような話を好んでいた。
「しかし、将軍であるわしが、そのようなことを言ったり、やったりはできぬ」
「承知しております」
「わしも、おぬしが考えるようになればいいと思うが、現実はいろいろなことの妥協で出来ておる。指一本動かすのにも、左右の景色をうかがわなければならない」
「はい」
「おぬしのやりたいようにやってみるがよい。わしは影から応援してやる」
隣で、冷や汗をかいていた畠山持国は、ほっと胸をなでおろした。




