缶詰(かんづめ)
片田の前に小猿ともう一人の男がいた。
「以前、お会いしたことがありますね」片田が言う。
「はい、片田村の安母工場でお会いしました。あの時は鳶丸と名乗っておりました」
確か、鍛冶丸が、アンモニア工場の次席だと言って紹介していた。
<そんなところにまで入り込んでいたのか>
もう一人の男は硝酸工場で働いていたという。
ここは堺にある、琉球の行の会議室である。片田が一時的に借りている。片田商店や片田村で藤林達と会うのはためらわれたからだ。
会議室には、藤林衆の主だった者が集まっていた。
水車に呑み込まれた辰吉(辰吉)の件以来、片田村では人別を行うことになった。人別とは戸籍のことである。
名前や年齢性別、村に来た年月日などを記録している。村民には身分証を発行した。
アンモニア工場やベアリング工場など、重要な施設に勤務するには、数年間の片田村居住実績が必要であるとされた。
「わかった」片田が言う。
「わかったとは、それだけですか」脇にいた藤林友保が言った。
「そうだ、なにか」
「いや、てっきり何かのお咎めがあると」
「何もない。仕事であったのであろう、右衛門佐(畠山義就)様がそう言っていたではないか」
「承知いたしました。それでは、次は、これがお望みの品です」
そういって友保が桐の箱を差し出す。
例の篩三枚であろうが、またバカていねいに包装したものだな、片田が思う。中にはニッケル、白金、鉄の触媒網が一枚ずつ入っていた。径の大きさで区別がつく。
よし、これで触媒の欠品は無くなった。
「確かに受け取りました。皆様を雇い入れるにあたっての条件はすべて満たされました。今後よろしくお願いします」片田が頭を下げる。
藤林衆が揃って、片田に向かって頭を下げた。
片田村では鍛冶丸がしょげている。鳶丸が突然いなくなってしまった。事故にあったのかとも思ったが、彼の宿舎は整頓されていて私物がまったく無くなっていた。鳶丸の意思で片田村を離れたのは間違いないものと思われた。
いずれは安母工場を任せられる人材だと思って育成してきたのに、残念であった。
「鍛冶丸、まだ元気にならないな」茸丸が石英丸に言う。
「ああ、そうだな。鳶丸の事がこたえているんだろう」石英丸が返す。
二人は片田村の作業室にいる。缶詰を試作していた。
薄い鉄板をプレス切断機にかけて、切り込みのある細長い板と、円盤二枚を切り取る。円盤の縁は曲げられて溝が造られている。
一枚の円盤を、溝を上に向けて置き、細長い鉄板を丸めて切り込みの所を重ねて円筒をつくる。円筒を円盤の上に置き、つなぎ目の所を錫ハンダで埋めて接着する。
「このハンダ、鉛じゃ駄目なのか」
「ああ、『じょん』が言うには、鉛は食べると毒になるそうだ」
そのため、鉛に比べると高価な舶来の錫を使っていた。錫は東南アジアの国々で砂の形で産出されるのだという。
底の出来た円筒と、残った円盤に電極を付けてメッキ液の中に浸すと、鉄板の表面に錫の膜が出来る。この膜のおかげで鉄が錆びにくくなる。
メッキ液から取り出し、よく洗浄する。中に米と水を適量入れ、残った円盤を上から被せて、これもハンダ付けする。
「出来たぞ、熱湯で加熱しよう」
六個の同様に作った缶詰を用意する。
五分計と呼んでいる砂時計を持ち出してきて、ひっくり返すと同時に六個全ての缶詰を熱湯の中に入れた。この砂時計の五分が正しいかどうかは怪しい。
砂時計をひっくり返して、十分加熱したところで、最初の一個を取り出す。以降五分毎に一缶ずつとりだした。
「どれから試す」石英丸が言う。
「そりゃあ、いちばん茹でた三十五分だろう」茸丸が答える。
石英丸が缶切りを持って、缶詰に当てる。
余談だが、缶詰が発明された当初、缶切りというものは無かった。人類が缶切りを発明するには、缶詰の発明から半世紀が必要だった。
その五十年間、人間は金槌と鑿で缶詰を開けた。斧でも開けた。銃剣でこじ開けた。粗暴な奴は銃をぶっ放して破裂させた。
そもそも軍用食として出来た物なので、手近に銃や銃剣があるのは、当たり前だった。
これほど面倒なものを、半世紀も我慢していたのは驚くべきことだ。当時の人間は工夫しなかったのだろうか。
「どんな感じですか」そういって大橋宗長さんが作業室に入ってくる。
「あ、大橋さん、ちょうど出来たところですよ。何分茹でたのを試したいですか」茸丸が言った。




