藤林衆の始末
畠山義就は嶽山城にいる。
嶽山城はどこにあるのか。
紀伊半島は吉野熊野の山々に覆われていて、平地が少ない。その山々の北に、紀の川を挟んで東西に延びる山脈がある。これを和泉山脈という。
フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に潜り込む。潜り込む時、フィリピン海プレートの表面がユーラシアプレートの端に削られる。削られたものが境界に沿って積みあがる。それが隆起によって地上に出たものを付加体ないしはプリズムという。
和泉山脈、淡路島南部、香川県と徳島県の間の讃岐山脈は、東西に延びる付加体である。太古には、このあたりにプレートの境界があり、海溝という深海があった。現在海溝は大きく南に後退している。
和泉山脈からは幾つもの尾根が北の河内平野に、櫛の歯のように延びている。
それらの尾根の一つに嶽山城が建っている
嶽山城は尾根の最北端に位置している。山頂部分はかなりの広さであり、三つ程の卓上地がある。城内の低地には湧水池があり、水にも困らなかった。
嶽山城から南に尾根伝いに行くと、一度下りまた登ったところに金胎寺城がある。これは嶽山城の支城であり、嶽山城と和泉山脈を結ぶ役割を担っている。
この時期の嶽山城は西、北、東の三方を敵に囲まれており、補給路は南の尾根伝いにしかなかった。
金胎寺城から南に尾根を伝っていくと、石川流域の三日市に出る。そこからさらに南へ向かい、千早口から和泉山脈に入り、紀見峠を越えて、紀の川流域の橋本に至る。
これが、嶽山城に籠った当初の、畠山義就の補給路である。
寛正三年(西暦一四六二年)になり、将軍義政の命により、大和、山城の軍勢、細川の讃岐、淡路勢等など、多くの軍勢が参戦する。
総がかりで嶽山城、金胎寺城によせるが、『彼両城を攻めらるる、されども要害無双なれば怯む景色もなかりける』という有様であった。引用は新撰長禄寛正記(群書類従)からである。
特に金胎寺城にあたった和泉衆は散々な目にあい、討ち死に数知れずという。
苦戦の末、政長軍が金胎寺城を奪う。
金胎寺城を手に入れた政長軍は、西、南、東の三方より嶽山城に波状攻撃をかけるが、南側より越智家栄の軍が政長軍の背後を襲ったため、落城させることはかなわなかった。
戦が、また膠着する。金胎寺城の喪失により、南の尾根筋を使えなくなった嶽山城は、金胎寺城を迂回する急斜面を通じて補給するしかなくなった。
補給が細る。それでも半年以上持ちこたえ、年を越して寛正四年(一四六三年)になった。
本丸の矢倉から、義就が眼下を見下ろす。彼の腕には大鷹が止まっている。
彼は北東の方を向いている。東はるかの弘川には畠山政長の本陣がある。正面の寛弘寺あたりには、石見国の益田兼堯、貞兼親子の幟が見える。
<ずいぶんと、遠くの大名まで呼んだものだな>義就が思う。鷹を空に放つ。
補給が困難になったため、嶽山城の備蓄が底をつきはじめた。城は持っても四月か五月までだろう。
南に越智家栄がいるので、味方の支配地域にたどり着くのは困難ではない。だから義就は自分の命の心配はしていない。
一城の主ではなくなることを心配している。
どういうことか。
一城を構えていれば、支援してくれる民がいる。食料も手に入る。片田順のように銭を貸してくれる者もいる。ところが勢力の拠点である城が無くなれば、ただの落ち武者である。支援が絶たれるであろう。収入が無くなる。
その場合、彼が抱えている軍隊をはじめとした組織が維持できなくなる。
例えば、藤林衆なども維持できなくなる。彼らをどうしたものか。彼らはクロの秘密を知っている。
クロとは、義就と藤林衆の間で取り決めた符牒であり、黒色火薬を表す。
彼らを手放してしまった場合、他の大名にクロの秘密が流出してしまう。それだけは、なんとしても避けなければならない。
もちろん、火薬の製法のほんの一部しか知らない。しかし片田村で火薬を製造しているという事実を知れば、諸大名は片田村を襲い火薬を手に入れようとするだろう。
いっそ、クロの秘密もろとも始末してしまうか、何度もそう考えた。
こうなるとわかっていたら、火薬の秘密を探らせていなかったかもしれない。火薬の事を知らなければ、彼らを手放してしまえばいいだけの事だった。どこの大名のところに流れて行っても、どうということはない。普通の忍びならば、どこの大名も雇っている。
藤林衆は、義就の父の畠山持国の代から、畠山に仕えている。愛着もある。それでも始末してしまうしかあるまい。
火薬の威力は、それほどに大きなものだった。
「野村孫大夫殿が到着しました」兵が後ろから義就に声をかける。河内運河での仕事を終え、運河工事の決算書を持ってきたのである。
「決算のこと、あいわかった」義就が孫大夫に言う。
「それにしても、ずいぶんと工事が速まったものだな」
「はい、飢饉で多くの民が工事現場に流れ込みました」
「そういうことだな」義就が片田を思い出す。大名として生きるより、片田のように生きた方が良い、一瞬そんなことを思う。
思えば、ただの寺の小僧だった義就が、ある日いきなり国持ち守護の頭領になった。守護として、思うがまま権力を行使し、国を良くしていくのは楽しい仕事だった。
しかし責任も重い。うまくいかなくなったときには、この有様だ。
「孫大夫、おぬしはこれから国に帰って、藤林友保を連れて再度この城に来てくれ」
「わかりました」そういって孫大夫が下がっていった。
「さて、どうするか」義就が思い悩む。




