飯場(はんば)
戎島の埋め立て地は、地図上で見ると菱形になるように予定されていた。その南西側の面には、四つの乾船渠を建設する予定だった。
埋め立ては、半ばまで進んでおり、中央部には鍛冶場、艤装品工場や蒸気室の一部が既にできている。
蒸気室というのは、中に熱い水蒸気を充満させる設備だ。
その中に船を構成する木材を入れて熱し、取り出して型に合わせて木材を曲げる。
蒸気室の前で、安宅丸が若者を集めて、小型練習船を造っていた。小型練習船とは、帆船の船乗り候補達が最初に乗る船のことで、二名が乗れる。
現代で言うならば、ディンギーのようなものである。
現代のディンギーと異なるのは、大型帆船操船のための練習船なので縦帆、横帆の両方が装備できるようになっている。
安宅丸の周囲にいる若者たちは、船乗りか船大工を希望する堺の若者だ。
安宅丸が蒸気室の扉を開けて、中から二枚の細長い板を取り出す。板の長さは十五尺(四.五メートル)程だ。
「右側が右二番だ、左が左二番」
彼らが板を船台のところに運ぶ。
船台には、船の背骨となる竜骨が載せられている。竜骨の左右には既に条板が一枚ずつ打ち付けられている。
竜骨の上には、船が完成したときの断面を表す数枚の型が載せられている。
熱せられて柔らかくなった条板をその型に押し当てて、船の予定曲面に合わせて曲げる。
そのまま、板が冷えるのを待つ。
「そう、左一番の条板と左二番の条板を合わせる、そして、今度は竜骨に打ち付けたのとは反対に、外側から銅の釘で打ち付ける。内側に釘が出てくるから気を付けて」
「お、本当だ。釘が出てきた。これじゃあ、危なくて舟に乗れないぞ」
「それは、こうするんだ。よく見ててくれ」
そういって、部品箱の釘の隣に入っている銅製の小さな輪をつまむ。
「これを座金という。これを内側に釘が飛び出している部分に被せる。そうして、ニッパで釘の先を切る」ニッパとはニッパーあるいはカッティング・プライヤのことだ。現代の言葉をそのまま使っている。
「これでも、なんかケガしそうだ」
「ああ、なので、仕上げが必要だ。石板を釘の頭のところに押し付けてくれないか」
石板とは書籍程の大きさの石の板だった。
「いいぞ、押し付けた」若者の一人が言う。
「最後はこうする」
そう言って、金槌で座金を数回叩く。
銅製の座金と釘は、金槌に潰されて条板の表面と一体化した。
「これならば、ケガをすることはないだろう」
そういって、顔を上げ皆の方を見た。
安宅丸が顔を上げた先、堺の埠頭に琉球のジャンク船が停泊していた。
帆を支える多数の竹材が印象的で、ジャンク船だと遠目にもわかる。
琉球は明からジャンク船建造技術を与えられていた。
ジャンク船の船倉からは米俵が運び出されていた。南洋社が鉄と交換して手に入れた南洋の米だった。
これらの米は、淀川を上り、都の富裕層に販売されていく。
米の輸入は山城、摂津、和泉の土倉酒屋と細川(かつもと)に銭をもたらす。
応神天皇陵の建設事務所。昼時になったので皆が飯場に向かう。この時代でも重労働を行うものや、旅行者などは昼食を食べるようになっていた。
「目付役殿、昼飯を食いに行きませんか」石之垣太夫が野村孫大夫を昼食に誘う。
「わしはいい」
「最近目付役殿が飯場に来ない、って炊き出しの連中が言っていました。どうしたんですか」
「わしは肉体労働をしているわけではないので食べずとも夕方まで持つ」
「以前は昼食べてましたよね」
「最近の米は、片田が海外から輸入しているというではないか」
「そう聞いています」
「そうまでして用意した米をわしが食うのは、ちと申し訳ない」
「そうなんですか。片田殿は目付役殿の三食は飯場で用意すると言っていたんでしょう」
「ああ、だがわしが食うぐらいならば、体を動かしている連中に食わせてやったほうがいい」
「そうなんですか」石之垣大夫が不思議そうな顔をして、飯場の方に去っていった。
都では南洋社が輸入米を高値で売りさばいているそうではないか。なぜ片田は同じようにしない。
苦労して輸入した米を運河建設の飯場で賄いとして食わせている。
それを聞きつけて、不作の年を乗り切ろうと運河の建設現場に大量に人が集まってきている。
おかげで運河建設が捗る。
石之垣もこれほど人夫が集まるとは思わなかったそうだ。彼も『ふう』もてんてこ舞いだ。測量と設計が追い付かないので、二人とも夜遅くまで仕事をしている。
当初五年以上かかると見積もられていた天皇陵以降の長い直線運河が、一、二年で完成してしまうのではないかと噂されている。
片田が運河を造り、河内大和を海に繋げ、かつ河内北半国の利水をしようとしていることは、わかる。
しかし、それだけではないな。
片田は何をやろうとしているのだろう、野村孫大夫が思った。




