羅針盤(らしんばん)
堺では、安宅丸による竜骨式帆船の建造が進んでいる。船が完成した時の為に、片田は村の石英丸達に船に搭載する羅針盤の製造を指示していた。
石英丸達は長さ七寸程の細長い菱形の鉄針を作り、それをフェライトと同じように磁化させる。これが磁針になる。
磁針の中心部には、鏨で叩かれた窪みがあり、下側から上側に向かって円錐形をなしている。
茸丸が硬質なカシ材で薄い升を作る。
「これ、硬いよな。こんなに硬い木材じゃなければダメなのか」茸丸がこぼす。
「嵐の日に、船に乗っていることを想像したら、これでなければならないのだろう」石英丸は言うが、彼が乗ったことがあるのは、大和川を行く船だけだ。
嵐に荒れ狂う大洋を航海する船を想像することはできない。
しかも鉄釘が使えないので、精密なホゾを作らなければならない。
升の底は黒く塗り、そこにコンパスと分度器を使って三百六十度の角度目盛を記入してある。
鍛冶丸が、角度目盛の中心に小さな窪みを設けて銀製の小碗をはめ込む。この小碗の中心には、太い針が取り付けられている。そこに磁針の窪んだ部分を載せると、磁針は垂直線を軸として自由に回転する。
磁針のバランスが悪い場合には、窪みを削りなおしたり、針を削ったりする。
磁針が水平になる。
「いいんじゃないか、三人が満足そうに、揺れる磁針を見る。達成感がある。
熱して滅菌した荏胡麻油を升に注ぎ入れる。この油は振動に対して磁針が過敏に反応することを防ぐダンパオイルだ。
油を升一杯に注いだところで、升と同じ大きさのガラス板で升を覆い、密閉する。
ガラス板はゆがみが無くなっている。ずいぶんと製法が進歩した。ガラス板の中心はすこし窪むように削ってある。そこが磁針の円錐に当たり、磁針が倒れないように固定される。
升からこぼれた油に鍛冶丸の指が触れる。
「あちぃ」そういって罵る。
すこし気泡が残るが、これは仕方がない。
升は周囲を銅製の枠で締め付けられ、補強される。
これで方位磁石が出来た。
次は、これを舶用にしなければならない。舶用とは船に載せることが出来るようにする、という意味だ。
船は上下左右に揺れる。時には激しく揺れる。また海水という塩水を浴びることもある。それらに対する対策が必要だった。それが舶用化だ。
海水については、磁針以外は鉄を使用していないので問題ないが、揺れに対する対策が必要だった。
ジンバルというものを作る。これは船が揺れても羅針盤を水平に保つ道具だ。
具体的には、三つの径の異なる真鍮製の輪で出来ている。真鍮は銅と亜鉛の合金だ。中心に方位磁石を置き、それを大中小三つの輪で囲む。それぞれは、これも銅製の軸で接続されるのだが。
方位磁石と小輪は左右方向の軸
小輪と中輪は前後方向の軸
中輪と大輪は上下方向の軸
で、それぞれ接続され、いずれの軸も自由に回転できる。自由に回転できるようにするために、『ふう』式ベアリングを金属製の精密で小型の物に改良した。ベアリングは米粒程の大きさの円筒形だ。
これで、大輪を船に固定したとき、船がどのように動いても、中心の方位磁石は水平を保つことが出来る。たとえ船が螺旋を描きながら宙返りをしても、磁石は水平のままだろう。
「やれ、できたな」三人が言う。羅針盤の完成だ。機器の説明だけで、ほぼ一話分を使い切る程面倒な機械だった。
指示通りの羅針盤が出来た、と石英丸が堺の片田に連絡すると、片田から次のような謎の文書が送られてきた。
「羅針盤のガラス面に、南北方向に銅線を一本引き、その銅線の両端を電池に接続し、磁針の動きを観察せよ」
「なんだ、この謎々みたいのは」三人が呆れる。
堺に向けて出荷しようと梱包してあった羅針盤を取り出して、手紙にあることを試すことにした。
石英丸が電池と銅線を倉庫から持ち出して来て、言われた通りに銅線を方位磁石のガラス面に置く。鍛冶丸と茸丸が動かないように銅線を押さえる。
銅線をそのまま電池に繋げると危険なので、あいだに黒鉛を塗り付けた板を挟み、それを可変抵抗器代わりとして電池に繋ぐ。
「お」
「あれ、」
「なんだ」
方位磁石が、左回りに四分の一程回転した。銅線を電池から放し電流を切ると、磁針が元に戻る。石英丸がもう一度電池に繋げる。また針が回る。何度やっても同じだ。
「これは、何だ」
「さあ、わからんが、なにか新しいことだな」
「これ、面白いな。磁針は銅線に触れていないのに動くぞ」
片田の彼らへの教育は、これまで数学と力学、化学が中心だった。
電磁気学も始めるつもりらしい。




