節用集(せつようしゅう) 2
節用集であるが、国立国会図書館デジタルコレクションに収載されているので、インターネットに接続できる者ならば、誰でも読むことができる。
Wikipediaの『節用集』の参考文献からリンクが張られているので、そこから辿ることができる。
写本であるため、古文書になるのだろうが、手習いの教材という側面もあったのであろう、楷書で丁寧にかかれているので、私のような者でも読むことが出来る。
漢字とそのフリガナが羅列されているだけなのであるが、これが時間を忘れるほど面白い。小説を書く手が止まるほどである。
しかたがないので、今日は予定外ではあるが節用集について書くことにする。
例えば草木門では胡椒、肉桂、肉荳蔲などが現れる。ペッパー、シナモン、ナツメグのことである。おそらく漢方薬として使われたのだろうがスパイシーである。
『リ』の時節門には、淋汗という項目があり、注として『夏中風呂』と書かれているのを見ると、思わずニヤリとしてしまう。
書かれている内容以外にも、書写本であるため色々な楽しみがある。
書写を行った者の得意な文字、苦手な文字がある。
あ、ここで筆を変えたな、ということがわかる。
そろそろ、書写に飽きて来たな、と思われる書き方のところがある。翌朝気をとりなおして、また元気に書いている。
版木の書写を担当する好胤さんもご苦労なことだ。五百年後の読者に、このような読まれ方をされてしまうことになるのだから、下手な字は書けないのである。
それでも、『い』と、項目の少ない『ろ』を合わせて、版本節用集の第一巻『い、ろ』が出版される。続けて『は、に』、『ほ、へ』『と、ち』と次々と出版された。二文字ずつ出版されることになったのは、当初の大橋宗長さん想定のペースより早い。
節用集売りという職業が出来る。荷車で節用集版本の入った葛籠を運び、地元の宿に泊る。
千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館が所蔵する『永禄六年北国下り遣足帳』という資料がある。
片田達より百年程後に書かれた旅行の支出記録であるが、それによると、旅行のための宿泊施設がかなり整備されており、宿泊料は近江から越後までほぼ等しく二十四文であったという。
節用集売りは、旅をしながら売るのであるから、宗長が言うように一文で売るわけにはいかない。片田村において一文で売っているものを仕入れて、旅先で五文、六文で売っているのである。
節用集売りは、秋から年末にかけてやってくる。農村に余裕のある時期だからだ。
「おっちゃん、『せっちょ』売っておくれ」
村の広場に荷車を置いた節用集売りにむかって、子供が銭を出す。『せっちょ』とは節用集のことらしい。
「どの巻が欲しいのかな」
「前に来たときは『は、に』の巻までだった。『に』までの漢字書けるぞ」
「そうか。その後、『ほ、へ』と『と、ち』が出ているがどうする」
「今は六文しか持っていないから」
「では、『ほ、へ』を持っていきな」そういって銭を受け取る。
広場に客がいなくなると、荷車を宿に預け、背負子に節用集を括り、一件ずつ民家を回り始める。
民家を総てあたってしまうと、近くの田畑に出ていく。
商人が宿に帰ってくる。
「商売はどうでしたか」宿の女将が対応する。
「まあまあですよ。宿泊代は払えそうです」そういって笑う。
この時代の宿賃とは食事代のことであるらしかった。朝食十二文、夕食十二文で、宿泊料は取らない。その代わり大きな相部屋で夜具も風呂も提供されないらしい。
先の遣足帳の研究者からの受け売りである。
「明日の朝食はどうなさいます」
「ああ、お願いします。明日は富野郷まで足を延ばしてみようと思っています。昼用の握り飯もお願いします」
「わかりました。ありがとうございます」そう言って、にこやかにほほ笑む。二十四文の客が三十六文になるのだから、愛想がいい。
彼は木津川河畔の上狛郷にいた、明日は同じ山城の、すこし都に寄った富野郷で商売をするつもりらしい。
「お客さん、富野に行くのなら、お気を付けなさい」
「ん、なんですか」
「右衛門佐様と赤入道様が八幡の神人を討伐するとか言って、兵を寄せてきています」
畠山義就と山名宗全が語らって、近江八幡配下の地侍などを討伐しようとしている、とのことだった。宗全は赤松氏出仕に反対したことで足利義政と対立し、隠居を命ぜられていた。この年、長禄二年にそれが赦免されたばかりであったが、さっそくの活躍である。
「は、では都に向かうのではなく、木津川を上って、伊賀の方に向かうとしましょう」




