アンモニア水
一年ほど前に、矢木の市の、横大路と下ツ道の交差点近くに、藍玉を売る店が出店した。片田村付近が綿布の産地になったので進出してきたとのことだった。
藍玉は高価な商品だったので、吹き曝しの屋形ではなく、米屋や酒屋と同じような店舗を借りている。
その藍屋に小猿が入っていく。月に一度の定期報告の日だった。藍屋は小猿との連絡用の隠れ蓑だ。
店頭から奥に入ると藤林友保がいた。藤林が直接来るとは、珍しい、そう小猿が思う。
型どおりの報告が済んだ。藤林友保が傍らの背負子に括り付けた旅行李から、茶器の棗ほどの大きさの壺を出して小猿に渡す。
茶器の棗は塗物だが、これは陶器だった。やはり陶器の蓋が付いていて、櫨蝋で密封されていた。
「開けてみてくれ」友保が言う。
小猿が蝋封を外して、中を見る。水のようなものが入っているが、強烈な獣臭がする。
「まちがいありません、安母です」
中に入っているのはアンモニア水だった。
「よかろう」
「出来たのですね」
「そうだ」友保が言う。
実際は極めて効率が悪く、まだ実用には届かない。小猿が盗んだニッケル触媒網は一枚しかない。ニッケルというものを知らないので、色々な金属を試してみるのだが、どれもうまくいかなかった。
しかし、どのようにすれば出来るのか、それが分かったということは大きな進歩だった。
「効率はさておき、出来るということがわかった。そちが言う『丁』工場の仕組みは暴けた」丁工場は石炭と水からアンモニアを製造する工場だ。
「そのようですね」
「次は安母と草木灰から硝酸と炭カリとかいうものを作る工場を調べなければならない。『丙』工場のことだ。丙工場に移ることができるか」
「無理です。目立たないようにしてはいたのですが、工場長の鍛冶丸というものに目をかけられました。それで倉庫に入ることが出来たのですが」
「どういうことだ」
「私を幹部候補にする、といって教育を受けさせてもらっています」
「気圧とか、化学反応、といったことを報告していたな、あれか」
「そうです。今、丙工場に移動したら、確実に怪しまれます」
友保はあきらめた。小猿の言うとおりだろう。それに幹部に取り立てられれば、それだけ調査範囲が拡がることもあろう。丙、乙工場にはそれぞれ別の者を潜入させよう。そう決めた。
乙工場とは、硝酸と炭カリから硝カリを作る工場のことだ。硝カリとは硝石のことで、ここまで暴くことが出来れば火薬が量産できる。
アンモニア水を作ったのは、伊賀の藤林友保配下の者だ。河内の畠山義就のところの実学者僧は、そこまでたどり着いていない。触媒網についてはまだ報告していないからだ。
小猿が藍屋から出て、矢木市の横大路を東、片田村の方に向かう。栄えているところを少し外れると、布施を求める僧侶や、物乞いの姿が目立つ。貨幣経済の急速な発達に伴い、有徳人という富者が現れる一方で、借金から地券や土地など、生産手段を手放す者も増える。そのような者たちが俄か僧侶や物乞いになる。
伊勢道を進み、片田村に入ると、この村には物乞いがいない。たとえ手足が一部無かろうと、なにがしかの仕事が用意され、衣食に困ることは無かった。
視力の無い者までもが、プレス加工された眼鏡の玉の仕上げ作業をやっていた。指先の感覚がするどいので、目が見える者よりも精確な作業が出来るのだという。
飢えた者はおらず、みな木綿の着物を着て、定期的に風呂に入りさっぱりとしている。
村の中心を走る道は、最近白い石で舗装され、『蒸気』というものが走り、人や荷物を運んでいる。
蒸気については、小猿も学んだ。驚くべきことだ。ヤカンの湯気にそんなことが出来る力があるとは思わなかった。
いい村だ。小猿が思った。




