畠山義就(はたけやまよしひろ)
片田が室町時代に来る前の年の夏。一人の少年が京都の南にある男山の頂上に立っていた。彼の背後には石清水八幡宮が建っている。彼の目の下には、この春から彼が寄宿している神応寺が見える。彼はそこから登ってきた。
神応寺の先には三つの川が東から西に流れている。手前から木津川、宇治川、桂川だ。この三つは左手で合流して淀川となる。それぞれの川には、白い帆をあげた舟がいくつも浮かんでおり、川を上り下りしている。ここは、京への物流の大動脈の一つだ。
桂川を目で追った先に桂がある。彼はこの春まで桂で母と暮らしていた。母は、いつも頭に白い布を被り、寂しそうな目をしていた。
あの川を行く舟は、すべて離宮八幡宮の舟か、その許可を得た舟だった。離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元宮で、合流点の近くにあり、油の座を掌握している。
”なぜ、人々は貧しいのか”子供なりに考えた。
石清水に来て驚いたのは、神主や僧侶が豊かに暮らしていたということだ。彼の育った里では、野菜や川魚などを京に売りに行く者が多かった。塩も、油も、衣服も、京ではなにもかもが高く、生活は楽ではなかった。
それがここでは、物があふれている。勘定役の僧侶の話を立ち聞きしたところ、舟が彼の足元の川を通過するだけで、価格が数倍にもなるという。
油は離宮が掌握しているが、それ以外の多くの座は石清水八幡宮が握っている。彼ら以外の者が、商売をすることはできない。
”神主も坊主も、なにもしていないではないか。昔からそうしている、というだけだ。これからもずっと続けるのか”
”実際にモノを作っているのは、百姓であり、漁師であり、職人ではないか。座も、関も、津も、そんなものはいらぬ”
彼の心に怒りがあふれてくる。もう一度桂の方を見る。桂の先、京の街を挟んで、はるか遠くの比叡のあたりに積乱雲が立っていた。あのあたりは雷雨が始まりそうだ。
寺に帰った少年は、坊主に呼び出された。
「父が、おまえを呼び戻すそうだ。明日迎えが来るから準備をしておけ。明日の朝のお勤めはやらなくともよい」
いわれたとおり、身の回りの物をまとめ、平包に入れて寝た。父といっても、会ったことは数度しかない。寺に放り込んでおいて、いまさらなんの用だ。
翌朝、迎えの者だというものがやってきた。この男が京にある父の家まで連れて行ってくれるというのだが、妙に丁寧な態度だった。
桂川を底の浅い小舟で上り、鴨川との合流点あたりで上陸する。田の間を北上し、遠くに寺の塔が見えだしたころから、ぽつぽつと人の姿が増えてくる。
京の中に入ると、両側は商店や民家、邸宅などが続く。少年は道の名前など知らないが、丸太町通りと麹屋町通りの交差するあたりに、少年の父の屋敷はあった。
「次郎、よく来た」男は言って、少年の心のうちを探るような目で睨んだ。
次郎と呼ばれた少年は、なにを答えたらよいのかわからなかったので、黙っていた。
「これからしばらく、この家に起居せよ。話はその後じゃ」
数か月を男の家で暮らした。男は次郎の様子に納得したようだった。ある日次郎を呼んで言った。
「次郎、お前にこの畠山家の家督を譲ろうと思う」
この男の名前は畠山持国という。次郎と呼ばれるのは、後の畠山義就である。
畠山家は、室町幕府で管領という要職を務めることもある名門であり、いくつもの国の守護の家でもあった。持国には次郎以外に男子の子供が居なかったが、正妻の子ではなかったので、寺に預けられることになった。畠山家を継ぐのは持国の弟である持富と決まっていた。それを持国は覆した。
持国は持冨に不満はなかった。気心も知れていたし、温和な性格であることも知っていた。しかしその子の世代になったら、どうなるかわからぬ。持国はそう考えた。
彼がそのような考えを持つようになったのは、六角の件があったからだ。
三年前、近江の守護であった六角満綱は一揆の首謀者と疑われたことで、家督と守護職を長男の持綱に譲り、一線から身を引こうとした。ところが六角の家臣達は、次男の時綱を担いで、満綱、持綱を自刃に追い込んでしまった。
持国は、自分の家臣団の中にも不満を持つものがいることを承知している。持冨が乱暴なことをしないというのはわかっているが、その子供たちを、不満分子が担ぎ出すことは、ありそうだ。その点、息子である次郎ならば安心だ。
その年の十一月、持冨への相続は、持国により撤回され、次郎に家督を相続する意向を将軍に伝え、裁可される。次郎は畠山義夏という名になった。
持国の不安は、当たっていたともいえる。このことがあってから、畠山の家臣団の一部は持冨の二人の男子を後継者とする動きに出る。畠山は内部で二つに分裂し、やがて応仁の乱の原因のひとつになっていくことになる。




