桜湯(さくら ゆ)
長禄二年(西暦一四五八年)五月五日。
先月開店した片田村の湯屋、桜湯が、菖蒲湯を催すと広告した。
片田村は、粟原川の東岸にある。東岸の方が高地になっているからだ。西岸は低地であるため、菜園などになっていた。
その西岸に桜湯が忽然と屹立した。
東岸、西岸と表現したのは、全体的に東西に分かれているからなのだが、桜湯のあたりでは粟原川は、一時的に湾曲し、東から西に流れている。
村の人間が西岸に渡るために、桜湯の正面に太鼓橋が架けられた。舟の通行を阻害しないように、橋が高く湾曲している。
橋の先に桜湯の北面の入口がある。
桜色の暖簾をくぐると、正面に番台がある。
番台については、外向きにするか、浴室向きにするかで議論になったが、桜湯では三助にあたる男女が、浴室内で顧客の手伝いをすることになった。
急場については、彼らが対応することとし、番台は外向きになった。
入浴料は六文である。
番台の左右は男女の脱衣所に向かって開かれており、石鹸や手拭、新手拭、糠袋、軽石、糸瓜などの入浴用品が売られている。
番台の右が男湯で、藍染めの暖簾に白く『義経』と染め抜かれている。左側の女湯は、茜染めで『静御前』だ。
『義経』をかわして、脱衣所に入ると、中は昭和期の銭湯に似ている。
片田が昭和期の銭湯しか知らないからだった。
江戸期の銭湯は、脱衣所と浴室の仕切りがなく、また浴槽と浴室の間に石榴口という仕切りがあり、浴槽を保温していたという。
脱衣所と浴室の間は最近作り始めたガラスをはめ込んだ引き戸で仕切られていた。
ガラス製造の技術が未熟なので、一尺四方の、向こう側が歪んで見えるガラスである。それを木枠にはめ込んで戸にしていた。
上半分がガラス、腰の部分は板張りだった。
脱衣所は藤床になっており、足裏が濡れていても心地よい。やはり藤で編んだ脱衣籠が隅に積まれていた。
脱衣籠の隣には、檜の行水桶があり、水が張られている。大きな枕のような氷が桶の中心に置かれ、周囲にラムネや牛乳のビンが立られている。
飲みたい客は、番台に銭を払って飲むことが出来る。
牛乳は、タマゴの次に片田が考えた蛋白質食品だ。あまり人気がない。
桶の隣には浄水器がある。こっちの水は無料だ。
脱衣所の左右は坪庭に開かれ、桜、紅葉、梅などの若木が植えられており、小さな池には金魚が泳いでいた。
ガラス戸を引き開けると、浴室である。
まず最初に目に入るのは正面の壁画だ。
男湯は、吉野山の中千本の景色だった。五郎兵衛茶屋あたりから眺めた如意輪寺が画題である。
匂い立つような満開の桜の中に、如意輪寺が浮き上がる。
女湯は、上千本だ。花矢倉から、はるかに吉野川方面を見渡す。こちらも無数の桜木が煙るように描かれている。
カラン(蛇口)を作る手間を省いたのだろうか、上がり湯用の湯槽と水槽が設けられ、客はそれを自分の洗い桶で混ぜて適温の湯をつくる。湯や水が減ると釜場から樋を伝って自動的に補給される。サイホンになっているらしい。
洗い桶、風呂椅子が壁面に三角形に積み上げられている。
客は浴室で体を洗った後に、壁画の下に設けられた浴槽にはいる。浴槽は大小二つに分かれており、小浴槽はすこし高温である。
大きな方の浴槽に石英丸と鍛冶丸が並んで入っている。
「鳶丸は物覚えが速くて優秀だ」鍛冶丸が小猿の事をいっているらしい。
「で、どうしたいんだ」
「いずれ、沼気工場の次席にしたい」メタン工場の副工場長候補にしたいといっているのだろう。
「そんなに優秀なのか」
「ああ、化学を学んではいないので、工場の原理は知らないが、物事の理はわかっている。だから学校の化学、物理、数学の教室にかよわせたい」
「それは、かまわない。学ぶ気があれば、大人でも受け入れる」
「そうしてくれると、ありがたい」
二人の周りには菖蒲の束が浮かんでいる。
茸丸と安宅丸が湯舟に入ってくる。
こちらの二人は菖蒲の葉で鉢巻を作り、頭に巻いている。頭が良くなるという、まじないだ。
「あした、二人とも堺にいくのか」石英丸が尋ねる。
「そうだ、竜骨船を回航する」
鍛冶丸の末の弟が、浴室に腹ばいになって、浴槽を蹴る。反動で更衣室の方に滑っていくのが楽しいらしい。
「いいかげんにしないと、叱られるぞ」鍛冶丸が声をかける。
言っている側から、他の客の風呂椅子に頭をぶつけて、どやされる。




