湯屋(ゆや)
布団を製造販売する組は、大橋宗長が最初に主体的に関わった組だった。
融資の判断は堺の片田と相談して決定したが、その後は宗長が組の支援を行った。
宗長は片田から支援の方法も教えられていた。
一つの商品が出来たら、その派生品を考えるとよい、というのもその一つだった。
片田は飯屋が出来たので、割り箸、食卓、椅子などが売れる。また、飯屋の勘定場の脇には旅に欠かせない草鞋や雨具、薬などを並べる、などである。
同様に宗長も考えてみた。
まず考えたのは高価な綿布団を保護する敷布と掛布団覆いだった。これらがあれば、布団の布地がまもられる。
次に、保管のための布団袋も考案して、布団組に売り出させた。
あとは、枕だ。枕は、藁を麻袋で包んだ物が既にあった。括枕と言う。貴族や僧侶は箱枕という木箱なども使っていた。
宗長は箱枕の上に括枕を載せ、箱の部分に小物を入れる引き出しを設けた。
垜枕である。
面白いことに、この時代の人々は、枕を布団の外に、接するように置いて使った。片田はなにも言わないことにした。
さらに、括枕の中に詰める物を藁ではなく、小豆、そば殻、綿、籾殻、茶殻など選べるようにした。
『あや』に倣って、布団の布地を選べるように、見本生地帳を作り、顧客が選べるようにもした。
後には、使い古した布団の綿を洗浄し、打ち直しを行い柔らかくする仕事も請け負うようになった。
次に宗長が着手したのは湯屋だった。銭湯である。
日本人が風呂に入るようになった歴史は古い。
光明皇后が入浴治療施設として法華寺に浴堂を建てた、というから、奈良時代には既に入浴という習慣が、一部かもしれないがあったことになる。
この頃の入浴が今のような温水に浸かる形式のものだったか、蒸し風呂のようなものか、それはわからない。
片田がいる時代には、風呂はかなり普及していたらしい。
同時代の興福寺衆徒である古市胤栄が幾たびも行った『林間』は豪勢なものであったらしい。
林間とは淋汗の当て字とのことだ。
尋尊さんの前の大乗院門主である経覚の『経覚私要鈔』によると、おおぜいの客に風呂をふるまい、その後、茶の湯、飲食のもてなしをしたという。
あるときの林間では
浴室には生け花、屏風、掛け軸、香炉などが配された。
湯壺を、大地を支える霊亀にたとえ、湯壺の中に蓬莱山の造り物を浮かべる。
霊亀の口からは酒が出てくる。というものであったらしい。
ここまで豪華なものではなくとも、寺には入浴施設があった。荘園制の崩壊により困窮する寺は、入浴料を取って一般の者に開放するようになった。
鎌倉時代の日蓮の書にそのようなことがあった、とのことである。
片田村の村人も風呂に入りたい。
彼らは慈観寺の風呂を利用することも出来たが、人口の増えた片田村の者達が毎日のように慈観寺に押しかけては迷惑だ。
そこで、威勢のいい村人が、そんなに風呂にはいりたけりゃあ、俺が湯屋を作ってやる、と言って楽民銀行に融資を依頼してきた。
「それは、いいですね」風呂好きの大橋宗長はその話に乗った。
片田村の北端、宇陀ヶ辻から少し南に登ったところ、粟原川対岸の低地に湯屋の建設が始まる。




