布団(ふとん)
片田が綿の実を手に入れ、慈観寺の庭に蒔いたのが宝徳二年(西暦一四五〇年)の春だったという。
大橋宗長が片田村に来た享徳三年(一四五四年)の翌年、片田村、外山の村の山裾は、帯のように綿畑になっていた。
大量に収穫される綿は、石英丸と鍛冶丸、茸丸の三人が作った自動綿打機、自動紡績機に通され、蒸気の力で大量の綿糸にされた。
綿糸は、さらに自動織機で綿布に織られる。
用意された倉庫は、瞬く間に綿布でいっぱいになった。
片田村や、周囲の村に綿布による衣類がいきわたる。夏場の野良着だけではなく、冬に着る掻巻という、綿を綿布で挟んだ防寒着も出来た。
掻巻は、寝る時に体にかけて保温することもが出来た。
現代の日本では、掻巻を着て家の外を出歩くことはない。しかし、昔の日本では上衣と掛け布団は兼用であった。
源氏物語では、貴族などでも就寝時、自分の着衣を体に掛けて寝ている。掻巻も、元は外で着る上着だったものが、いつのまにか寝具専用になったのであろう。
綿製の衣服が浸透すると、ある日、片田が布団を作りたい、と言い出した。
「布団って、なんだ」茸丸が尋ねる。
あまりにも、あたりまえの物を説明するのは、むずかしい。
「綿を、四角い木綿袋に詰めて、畳のようにしたものだ」片田が、なんとか説明を捻り出す。
「その畳のようなものを二枚作り、間に入って寝る。上の布団は、綿打ちを強くして、ふわりとさせる」
「寝筵の代わりのようなもの、ですか」大橋宗長が言った。
「そのとおり」
片田の言うままに布団なるものを二重ね作ってみた。片田が片方の布団に入って見せる。
「このように、使う。大橋さんも入ってみるとよい」
宗長が布団に入ってみると、成程これは寝心地がよい。
「これは、ぜいたく品ですね」宗長が言う。
「すぐに、誰でもが布団に寝られるようになるでしょう」片田が、隣の布団で上を向きながら言った。
周囲に居た者たちが、代わる代わる布団に入ってみる。
「これの中で、寝てみたい」
「吸い込まれそうになる」
「出たくない」
など、評判は良かった。
この布団は、一重ねは、堺の片田商店に送られた。片田自身が使用するのだろう。もう一重ねは、片田村の作業棟の一室に置かれて、誰でもが布団を試すことが出来るようにした。
作業棟に『あや』がやってくる。評判の布団なるものを試しに来たのだ。
「ほーお、これが天竺布団か、素敵な物ね」『あや』が、布団の中に入って、思わず言った。
天竺布団というのは、この布団の商品名だ。
「これ、買うわ。でも、この白木綿がちょっとね」『あや』が布団綿を包んでいる、白木綿の布を指して言う。
「せっかく、こんなに素敵な寝心地なのに、白木綿じゃ、駄目よね」
「そんなもんですか」
布団を製造販売することになった組の男が言う。男は布団の布地が何であろうと、寝心地がよければ十分だった。片田も大橋もそうだろう。
「そうよ。あ、そうだ。この布団の布って、替えられるの」
「替えられますよ」
「じゃあ、布の部分は私が用意するから、布団を買うわ」
実際日本では、片田の時代どころか戦後のある時期まで布団は自家製だった。
「一組ちょうだい。いえ、待って」
そういって、『あや』が少し考えた後、ニヤリと笑う。
「三組ちょうだい。それだと、いつ頃受け取れるかしら」
納期は、『あや』の予定に十分だった。
石英丸と『ふう』の結婚式だった。
場所は石英丸が片田村の役所の近くに建てた彼の新居だ。
普段は男みたいな『ふう』だったが、花嫁衣裳を着せれば、やはり立派な花嫁だ。
花嫁衣裳や式の段取りなどには、片田の助言があった。
神主が下がり、宴が始まる。
しばらくして、皆が盛り上がってきたところで、『あや』が立ち上がる。
「石英丸と『ふう』に結婚の祝いを贈るわ。ここにいるみんなからよ」そう言って庭を指さす。
何人かが、二組の布団を庭から、縁側に運び入れる。
一組は縹という青色、これは石英丸向け。もう一つは緋という赤色の布団だった。緋は『ふう』向けだろう。
両方とも、都から取り寄せた平織の絹を染めたものだ。
ふわりとして、と柔らかそうだった。
「きれいな色ね」
「いいわねぇ」
宴に参加した若い娘達がいう。
『ふう』は顔が真っ赤だった。
「なんていう色だ。はずかしいだろ」小声で言った後で、『あや』に言った。
「ありがとう」
以後、嫁入道具に、二重ねの婚礼布団が用いられるようになる。




