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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順
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土倉(どそう)

 金を貸して利息を取る、という商売は昔からあったのだろう。才能はあるが、資金を持っていない者に金を貸し、事業成功のチャンスを与えるという場合には、産業や事業をおこすことになる。天災など、予想できない被害に対しての貸付は、事業や生活の継続に欠かせない。


 しかし、社会全体から見たときに、資金を持たないものの集団から、資金を持つ集団へ、資金が一方的に移動するという側面もある。個々人が一方から他方に移動することはあるが、全体としては、この流れは一方的であり、逆の流れはうまれず、時間とともに両者は二極化していく。この動きがゆるやかであれば、技術の進歩や、社会の発展、福祉などで矛盾を吸収できるかもしれないが、急速な場合には危険である。


 この流れが、室町時代の日本で、急速に、しかも社会の安定を揺るがすほどの規模で発生した。資金を持つ集団は、土倉・酒屋などといわれ、高校の日本史に登場するほど歴史的に重要視される。せきを支配する寺院・神社もこちらの集団に入る。興福寺などである。一方、資金を持たない集団とは、農民や、荘園からの収入にのみ依存する貴族・社寺などである。

 資金をもたない集団では、例えば農民であれば土地を耕作する権利を、貴族であれば翌年の荘園収入や、荘園の所有権そのものを担保に金を借り、当座をしのごうとする。しかし、借金を返せず土地や荘園を失えば、かれらは路頭に迷い、生産手段がなければ餓死を待つばかりだ。そのようなことは許せない。これが急速かつ大規模に起きれば、社会そのものが大きく壊れてしまうことになる。


 室町時代の日本人はこの事態にどう対処したのか。簡単に言うと集団で暴れて、借金を無かったものにしたのだった。これを土一揆つちいっき徳政一揆とくせいいっきという。土というのは当時農民を土民と呼んでいたので、農民一揆という意味であり、徳政とは、借金で困っている民に土地を取り戻させて救う良い政治という意味だ。




 大和国では、片田が『とび』の村に来て、二年目は大風大雨の災害があった。『とび』の村は、春の施肥で丈夫な稲が育っていたし、土地も比較的高い位置にあったので、被害はそれほどでもなかった。しかし、大和川の下流、筒井あたりなどは田が水没してしまうところもあった。

 そのような村では、この年、土倉に借金をするものが、多く出たと思われる。


 その翌年、片田達が、楠葉西忍くすばさいにんに注文されたシイタケと眼鏡を作っている夏は、日照りの年となった。


不作が二年続けば一揆がおきるじゃろ、と好胤こういんさんが言っていた。慈観寺下の河原では、『ふう』とその父親が、大和各地から送られてきた男達に揚水機の作り方を教えている。被害を少しでも減らせないかと好胤さんと薬泉寺の覚慶かくけいさんが大乗院に持ち掛け、人を集めたのだった。箸尾はしお越智おちのような近所だけではなく、古市ふるいち筒井つついなどの遠方からもやってきていた。

 彼らはそれぞれの村に帰り、揚水機を作るだろう。



 九月、楠葉西忍が五十頭の馬を連れた馬借ばしゃくと、多くの僧兵とともにやってきた。

「五千斤作っていただいたとのこと、ありがとうございます」西忍が言った。

「人手も増えましたので、なんとかできました」

 茸丸たけまるの研究で、ずいぶんと歩留ぶどまりが良くなっている。最近では菌床を入れた竹コップの八割以上からシイタケが生えてくるようになっていた。また、片田村の住人も百名ほどに増えている。あの魂が抜けたようになっていた女性も、いまでは元気にシイタケを干している。

 西忍は、眼鏡箱とシイタケの箱、それぞれひとつづつ開けて、指示どおりに詰められていることを確認する。満足したようだった。

 十頭の馬に十箱づつの眼鏡箱を下げるように指示する。シイタケの箱は、一つが一俵程詰めてあるが、軽いので、これも一頭あたり、八個づつ下げさせた。

「お代をお支払いします」

 そういって、四十枚程の預かり証を差し出した。

「私、西忍から、片田順殿に商品代金として渡した、と裏書を入れておきました」

 確実な取引をする人だ、と思った。

「京、堺、河内、大和などの土倉に分散してあります。世の中があやしくなってきましたので分けておきました」

 片田は配慮に礼をいった。

「私もミンへ渡ります。次はいつお会いできるか、わかりません。次の時も、またよい取引ができたらいいと思います」


 楠葉西忍とその息子、二十三歳の元次もとつぐはその年の十月に京を出発する。

 彼らは、翌年の正月に博多に到着し、渡明の準備をする。秋の季節風を待ち、八月に博多を出発するが、風に恵まれず、平戸でその年を越す。翌年三月に春の季節風に乗ってようやく明に渡り、十月に明の皇帝に拝謁する。さらにその翌年の二月に北京を立ち、七月に赤間関あかまがせき、いまで言うところの下関に帰着する。三年がかりの旅となった。


 一方、大和国では、心配していたとおり十月に北部で一揆が起きた。興福寺の一部である大乗院も焼けてしまう。尋尊様は大丈夫であろうか。

 西忍が心配した通り、片田が持つ預かり証を発行した土倉もいくつかやられている。この銭は回収できないかもしれない。


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