浄水器(じょうすいき)
これから来るであろう長禄・寛正の飢饉のことは、常に片田の頭の中にある。
日本史は士官学校の予科で少しばかりやっただけだ。それも軍事に関わるようなことが多い。飢饉のようなことについては、応仁の乱の原因の一つになったということぐらいしか覚えていない。
確か、水害と干ばつが交互に起きたのに加えて、虫害と疫病も加わって大飢饉になったとされていたと思う。
水害については、片田村と外山村は大丈夫であろう。大和川の最上流部に位置しているからだ。大和盆地で水害になりそうな所といえば、大和川が大阪平野に出る亀の瀬運河の上流部あたりである。
地名で言うと龍田、筒井のあたりだ。ここは、現在畠山義就の勢力下にあり、片田が何か働きかけることは出来ない。
水害については手当しなくともよいであろう。
干ばつは、倉橋溜池と揚水機で解決できる。
虫害か。これはどうしたものか。虫が大発生するのは、小鳥による食虫が減るから、ということを聞いたことがある。飢饉になったときに、小鳥が食べる雑穀などを絶やさぬようにする程度のことは出来るだろう。
消極的だが、それ以外に打てる手もなさそうだった。
殺虫剤など、片田の守備範囲を大きく外れている。
疫病。特に堺のような、人が密集した都市で疫病は恐ろしい。
片田の卒業した士官学校の本科には衛生学の課程があった。もちろん一般的な衛生学ではなく、軍人のための衛生学である。
大陸や東南アジアなどに出兵していったときの、感染症に対する防疫が中心であった。
感染症が人に移る経路は主に二つある。
一つは飛沫などによる感染である。衛生学の教師は空気感染と呼んでいた。
これは人間が対面したときなどに起きる。感染者が話したり叫んだりしたときに飛ぶ飛沫に細菌やウイルスが含まれていて。健常者がそれを吸い込むことにより感染する。
この飛沫が長時間空気中に漂っていても生き延びるような病原体であると、かなり深刻である。
これについては、マスクを用意しておく以外には方法がない。幸い木綿を量産できるようになっていたので、麻よりは付け心地のよいマスクが作れるだろう。
この時代の人々にマスクを着けさせることを想像して、片田は微笑んだ。
そうとう、抵抗するだろうな。
もう一つは接触感染などと呼んでいた。感染者が出す血液や便、吐しゃ物などに触れた手などから健常者に感染する。流水や土砂、動物を経由することもある。
これについては、対策を学んでいた。
煮沸と浄水、害虫害獣の駆除である。
口に入れる食物は、必ず加熱すること。水についても加熱して冷ましたものを飲むのが望ましいが、出来ない場合には少なくとも浄水しなければならない、と習った。
士官学校で習った浄水の仕方はこうだった。
泥水しか手に入らない場合。
丈夫な布の袋、または布袋が無い場合には軍服のズボンを用意する。ズボンの場合には片側の足先を紐で縛り閉塞する。
そこに砂、小石などを交互に何層か詰め込む。木の枝などに吊るし、上から水を注ぐ。この時、上部の周囲から水が漏れださないように注意しなければならない。
これで水から泥などの微細物を除くことが出来る。
濾過された水は、可能ならば煮沸して細菌などを除き飲用に供す。
どうも士官学校時代の教科書調の口調になってしまう。
野戦では、このような調達の仕方になる。
しかし、前線基地などの比較的安定した場所では、簡易浄水器を作ることも教えられた。
まず、大きな広口の壺を用意する。壺の底に近い側面に穴をあけ、竹などを挿して周囲を粘土で固める。これが水を出す蛇口になる。
次に粘土に籾殻を混ぜて捏ね。洗面器の様な土器を作る。籾殻は稲でなくとも麦でも雑穀でもいい。土器の大きさは、先の壺の口を上回るようにする。
これを、野焼きでいいので、素焼きする。
この素焼き粘土の土器はフィルターの役割を果たす。
壺の口の上に土器を載せて、泥水などを濾した水を入れる。すると、水が土器にしみこんでいき、下の壺の中に滴り落ちる。
籾殻は、野焼きしたときに焼けてしまい、土器の中に無数の閉鎖された空洞をつくり、水の浸透を促進させる。
この土器浄水器で、細菌までは濾過することができるので、かなり安全な水を手に入れることができる。
ただし、ウイルスを除くことはできない。ウイルスは土器の隙間より小さいからだ。
そもそもウイルスは、このようにしても除くことが出来ないということで、細菌と異なる何者かだ、ということが知られたという歴史がある。
なので、ウイルスの事を濾過性病原体と呼んでいた時期もあった。
片田は土器浄水器を試作させて、片田村の飲料水を、すべてこれを通したものとさせた。米飯や汁など加熱するものは、いままでどおりでもよい。
さらに、これを堺にも普及させようとしたが、これは理解が得られなかった。
堺の方は、少しずつ理解者を増やしていくしかあるまい。




