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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 外伝
227/632

羽衣券(はごろも けん)

 梅雨つゆ時の重苦しい雲が、見上げた空を一面に覆っている。檜皮葺ひわだぶきの五重塔が相輪そうりんを雲に突き刺すようにして建っている。今にも雨が降って来そうだ。

 大内教弘のりひろが一人の商人と共に、香積寺こうしゃくじ(現在の瑠璃光寺)の庭を歩いている。


 庭には高い樹木などはない。左手は芝、右手は池であり、池のかなたにははるかに山口の城下が広がっていた。五重塔からも離れたこの場所であるならば、盗み聞きをされる恐れもない。教弘が商人羽衣屋はごろもや織部おりべと密談をするには、よい場所だった。


安芸あきでのいくさは、まだしばらくかかる」教弘が言った。

 彼は、この年の春に安芸の武田氏を攻めた。攻撃の直接の理由は婿むこ佐伯さえき親春ちかはると、武田信繁のぶしげとの領地争いである。

 親春は厳島いつくしま神社の神主であり、争いの種となったのは厳島の社領である。

 教弘は朝鮮半島との交易で大きな収入を得ていたが、この頃まで十年程、安芸国の武田氏と争い続けており、資金繰りにきゅうしていた。


銀山かなやま城は守りが固い。尾根沿いに無数の曲輪くるわを持っておる」

「さようでしょうな、もともとゲン軍の侵攻に備えたものだと申しますから」織部が言う。

 元寇げんこう軍が上陸した際の山陽道の備えとして建てられた城であると言いたいのであろう。


「あまり攻撃に時間をかけると、幕府が介入してくる、なんとか短期間で戦を収めたいのだが、そのためには銭がさらに必要だ」

「と、申されましても」

銭貫ぜにつらでなくともよい。春にしてくれたように、紙幣をってくれないか」彼が銭貫と呼んでいるのは銭千枚を一本の紐でつらぬいたものだ。


 羽衣屋は山口の土倉であった。元々は絹問屋きぬといやという生糸の運送業を営んでいた。生糸は高価であり、かつ臭気しゅうきが付かないように新しい船で運ばれなければならなかった。運送の利益は大きいが、資力と実力が無ければ出来ない仕事だった。

 織部は本業で財を成し、貸金業を始めて、土倉を経営していた。


 そこに、大和から楽民銀行券というものがやってきた。土倉に預かる銭の数割を、銭そのものを貸す代わりに、紙幣として発行し流通させるという考えだった。

 これは便利である。確かに土倉に保存されている預金者から預かった銭が全部出払うことはない。預金残高は時により変化するし、一部は融資という形で持ち出されている。しかし倉に実際にある銭が、預金残高の半分以下になることは決してなかった。それには織部も気が付いていて、もったいないことだ、これをなにかに利用できないか、と思案していたところだった。

 そこに、大和の誰かは知らぬが、知恵のあるものがいて、土倉に眠っている銭を担保とした紙幣を発行した。

 紙幣は銭の代わりとして流通させることが出来て、土倉に持参すればいつでも銭と交換してもらえるという。

 ただ、大和の楽民銀行は山口にはなかった。最も近いのは博多の片田商店の店内に儲けられた支店である。

 そこで、織部は山口に羽衣銀行を設立する。羽衣銀行券を発行して融資を行うこととした。

 券面には、いつでも羽衣銀行に持ち込めば同額の銭と交換する、と記載する。これも楽民銀行と同じだ。

羽衣銀行券、楽民銀行券、銭貨、片田銀などの両替商もおこなった。

 羽衣券の額面は、楽民券と同様で十文、五十文、百文だった。その発行額は羽衣屋の預金残高の三割を上限とした。




 大内教弘が安芸と戦を始めることになり、教弘から織部に融資の依頼が来る。教弘に対して銭そのものを貸してもよかった。しかし織部は、銭は準備として残すことにして、羽衣券を増刷して融資に対応してしまった。羽衣券は預金残高の五割を超えた。

 預金残高には、銭の形で融資しているものもある。それらの差し引くと、仮に今、市中にある羽衣券が全て彼の土倉に戻ってくると、倉には銭が無くなる。

 ぎりぎりであった。


 梅雨に入る直前に、羽衣銀行で不祥事ふしょうじが起きる。羽衣屋の雇人やといにんが不正に羽衣券を印刷して横領した。彼はそれを持って色街いろまちで豪遊したのだそうである。実際に不正印刷したのは、十貫分にも満たないわずかな額であったが、羽衣券の信用をとした。

 偽札が出まわったら、銭との交換が出来なくなるのではないか、と。

 今回の券は、偽の札ではないが、未承認で不正に刷られたという意味では偽札だということもできる。



多くの民が紙幣を握りしめて羽衣屋に殺到する。銭と交換してもらうためだった。織部は羽衣屋の店頭に立って陣頭指揮をした。三つの卓を店頭に設け、それを交換所にして、それぞれ担当を置く。残りの店員は全員倉の奥に送り、全ての銭を店頭に持ち出させた。


銀行券は百文、五十文などの額であるため、交換所では銭をまとめている紐をほどき、持参された紙幣に対応する額を勘定して、銭を渡す。

手間がかかるのである。


それに比べ銭貫を倉から持ち出すのは速い

行列から、もっと交換所を増やせ、という声が出る頃には、羽衣屋店頭に銭の山ができる。もちろんその左右には屈強な店員が何名も控える。


出来上がった銭の山に、皆あきれかえる。

「こんなに銭があるのであれば、多少偽札を作るやつがいても、大丈夫なのではないか」そんなことを言いながら、集まった群衆が去っていった。


二度とあんな思いはしたくない。織部は思う。


大内教弘に呼び出された理由はわかっていた。また紙幣を印刷して貸してくれ、というに違いなかった。


教弘も、ただ紙を摺れば銭になる、とは思っていない。それほど浅はかではない。しかし、その深刻さについては、織部とは大きな隔たりがある。


「これ以上、紙幣を印刷した場合、もし取り付け騒ぎが起きたとき、何がおきるかわかりませぬ」織部が答える。

「何がおきるのだ」

「わかりません。初めてのことですので、どれほどのことが起きるのか、予想できないのです」


「では、出来ない、と申すのじゃな」教弘がにらみつける。

「いいえ、そうではありません。一つだけ方法があります」織部が答えた。冷や汗が出る。

「なんだ」

下知げちを出してほしいのです」

「どういう下知だ」


「今年より、年貢は羽衣券のみで納めるように、という下知です」


 教弘が面食らったような顔をした。教弘が欲しがらない羽衣券を、民が欲しがるわけもあるまい、織部がそう言っているように見えた。


 年貢が羽衣券でしか納められないとすれば、民が羽衣券を無価値だと思うことはないであろう。取り付けも起きまい。織部はそう考えていた。

 加えて、織部が苦し紛れに考えた方法は、MMT(現代貨幣理論)の萌芽ほうがであるとも言えるかもしれない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 戦国から江戸初期においては、このような貨幣経済の萌芽が生まれていたにも関わらず、江戸幕府は経済統制のため米本位制に回帰してしまったのですが、藩札が本格的に流通し始める、19世紀前半を待たず…
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