合理的に
初夏の入口まで来ていた。白鳥陵の周囲では無数のヒバリが囀っている。図面と計算書を見た野村孫大夫は、自力で理解することをあきらめる。
庶務掛の男に、工事全体の概要を誰かに説明してもらえないか、と頼んだ。
「そりゃあ、『ふう』様だろう」
「そうじゃ、そうじゃ、『ふう』様が一番、全体を知っておる」
「そんな、あたし、嫌だ」『ふう』が言った。
「なんでじゃ、御目付役様が怖いのか」
「怖くはないが、あまり知らん人と話はしたくない」
広い事務所の反対側で、なにやら相談している。孫大夫は知らぬふりをした。
「そうだ、大夫、あなたがやってよ」『ふう』が石之垣大夫を指名する。
「工事のことは、わしでもわかるが。しかし、この積算表のほうは『ふう』、そちでなければ説明できぬだろう」大夫が言った。
「……」
先ほど図面と積算表を持ってきた娘が孫大夫の方に来る。やはり赤い顔をしている。
<この娘が普請場の頭なのか>孫大夫がいぶかしく思う。
「あたしは、『ふう』だ」
「『ふう』、とはそちの名前か」
「そうだ」
「わしは野村孫大夫という。で、何をしにきた」
『ふう』が、情けなさそうな顔で皆の方を振り向く。やっぱ無理だ。
皆が、がんばれ、という顔をする。しかたがないので、向き直る。
「工事の概要を説明する」
「そちがか。出来るのか。では尋ねるが、地図に所々ある、この赤い数字はなんだ。土地の高さのようにも見えるが」孫大夫が図面を指さして尋ねる。
「それは、その地点の高さを表している」
「やはり、高さなのか。しかし、南の石川上流が少なく北に行くほど数字が大きくなるではないか。実際には逆で、北に行くほど土地は低くなるはずだが」
「ああ、それは簡単だ。まず、最上流の石川の堰の高さをゼロ、零としている。赤で書かれている数字は、そこから何尺下っているのかを表す数字だ」
「しかし、お前が持ってきた対応表では黒数(負の数)は-(マイナス)を付ける、とあるが」
「そうなのだが、最上流がゼロなので、それ以降は全て負の数になる。負数に全てマイナスをつけるのは、面倒なので省略している。だから数字が大きい程、低い土地になる」
「そういうことか、解った」
筋道を立てて説明すれば理解できる人間のようだった。『ふう』は少し安心する。
『ふう』が人見知りする理由の一つには、たいがいの大人が、理詰めで話をしても理解しようとしないから、というのがある。合理的であることよりも、習慣や、好悪で物事を判断する。そのような大人とは話しにくい。
しかし、この男とは合理的な話が出来そうだ。まず標高の数字に目をつけて、おかしいと思うのは、よい。
「この工事の、最も重要なところから、話す」『ふう』がいう。
「この場所、『岡』の字が最重要だ」そういって『ふう』が地図の場所を指さす。岡の脇には三十とかかれている。『岡』の位置は、現在の近鉄南大阪線の藤井寺駅のあたりである。
「ここが、運河予定路のなかで、周囲に比べて一番標高が高いところだ」
「なるほど、そのようだな」孫大夫が地図の周囲の数字を確認して言う。
「ここに水を導ければ、あとは、途中いくつかの起伏があるが、西の堺まで、まっすぐに水を流すことができる」
「いくつか、小さな石橋を作れば、やれそうだな」
「岡と石川上流の堰との間で、標高の高い所は、ここになる」『ふう』が古代の陵を指さす。応神天皇陵のところだ。
孫大夫が、そこを見る。
「しかし、ここの数字は三十三だぞ、三尺も岡より低いではないか。これでは水が岡に向かって流れぬ」
「そのとおりだ」
「そこで、陵の周囲に六尺ないしは八尺程の土手を築く。土手は既にあるのだが、その高さを増す」
「そうか、それで陵に水を引く理由がわかった」孫大夫が納得したような顔をする。
「水位を上げてやれば、仲哀水道橋で岡に水を流せる」
「次に、陵には、大乗川のこの場所から誉田水道橋を作って水を引く」
ほぼ北に向かって流れる大乗川が、わずかに北北東に向きを変えるあたりを『ふう』が指さした。赤い数字で二十三と書かれている。
畠山義就が高屋城を建設しようとしている、その南西側だった。
「三十三に、土手で六尺かさ上げすると、二十七か。二十三から二十七に水は流せるな」孫大夫が言う。
「そうだ、実際にはそれほどの勾配は必要ないので、二十三の数字よりも北側に取水口を設ける」」
『ふう』の説明を聞いているうちに、孫大夫にも、地図が立体的に見えてきた。なるほど。『ふう』の考えた流路が、最も少ない工数で水を『岡』に導けるであろう。
そして、河内全体について、思いを巡らせると、この運河が出来れば河内北半国に用水を回すことが出来る。
「実際に工事を進めるときには、工事用資材を大和川から調達するので、まず誉田水道橋を先に作り、陵までの物流を確保してから、仲哀水道橋に取り掛かるのであろうな」
「そのとおりだ」
「『ふう』よ、これはおぬしが考えたのか」孫大夫が尋ねる。
「ちがう、運河を通すということは『じょん』が考えた。あ、『じょん』とは片田順の事だ。そのあと、どのように通せば一番手間がかからないか、という所だけは、あたしが考えた」
「全体については、これでいいかしら。じゃあ、次に積算について説明する」
『ふう』が、的確に運河工事の要点を説明した。これには孫大夫も恐れ入った。これが十六、七の娘の言う事か、と。




