紙幣
片田村の学校脇、川沿いの道に素朴な屋台が立つ。村の媼が担いできたものだ。屋台と言っても、天秤棒に薄い風よけの板を付けた程度のものなので、老女でも担ぐことが出来る。
屋台が立つのは、子供達の下校時のわずかな時間だけだった。
「水飴、おくれ」子供が鉄銭を三枚さしだす。
老女が、はいよ、と言って鍋の蓋を開け、割り箸を差し込んで、小さな火鉢で温めた水飴を掬い上げる。
「ほら、どうぞ」そう言って子供に渡す。そうしている間にも子供達が何人もやってきて鉄銭を差し出す。
この鉄銭は十枚で従来の銅銭一枚、すなわち一文と交換される。鉄銭一枚は一厘という単位で呼ばれている。水飴一つが鉄銭三枚、すなわち三厘で、現代だと二十円程度である。
割り箸は、老女の娘がやっている割箸製造所から製造不良品を無料で受け取っていた。
この鉄銭は、楽民銀行が作ったものだった。私鋳銭である。
貨幣経済が普及し、村人の取引が活発になるにつれ、通貨の単位が銭一枚一文(約七十五円程度)では不都合になってきた。
一方で楽民銀行の預金残高が多くなり、半分程は融資に回していたが、残り半分は代官所に保管されるだけであった。
そこで片田と大橋が相談して、預金残高の一割を上限として、鉄銭と楽民銀行券を発行することにした。決定にあたっては、楽民銀行加盟者の総会を開いた。
鉄銭も銀行券も、楽民銀行に持ち込めば、いつでも一般に流通している銅銭と交換する、としていた。
楽民銀行券は、十文、五十文、百文の三種類を発行した。いずれも券面には楽民銀行に銀行券を持ち込めば同額の銭と交換する、と印刷してあった。
券は銅版で精密に印刷されており、デザインは『あや』と『いと』が担当した。銅版の作成には精密な鑿と硝酸による腐食の二種類の方法が使われており、同時代の技術では偽造が困難であった。
鉄銭については、片田達は蒸気機関による高圧プレスを用いていて量産している。仮に他者が偽造しても、到底採算はあわない。
鉄銭は、貨幣経済の裾野を拡げることになる。水飴売りのように、従来では商売にならないような商品が現れる。
また、商品の値決めがより自由になり競争が促進される。
十文で売っていたものが、九文八厘、九文七厘などの値で売られるようになった。
紙幣は、銭の流通を促進することにもなる。預金者から預かった銭を代官所にしまっておくだけでは、市中を流通する銭がいずれ不足してしまう。不足してしまえば決済を行うことが出来なくなり、経済が滞ることになる。
年貢を銭で納めている地域が増えているが、銭が不足すれば相対的に米の価格が下がり、実質的な増税になってしまう。
幕府は明から銅銭を輸入するか、自ら鋳造しなければならない。
ところが、紙幣があればそれを防ぐことが出来る。
実は、この頃までに紙幣に似たものが日本でも考えられていた。例えば本編に現れる土倉の預かり証などは、通貨の代わりになった。後醍醐天皇は楮幣という紙幣を発行しようとして、実現できなかった。
鉄銭と楽民銀行券は、当初楽民銀行のある大和平野南部でのみ流通していたが、まず鉄銭が京都や奈良、堺でも流通するようになり、片田が堺や京都、博多などに片田商店を拡げていくのと並行して、片田銀と共に各地で流通するようになる。
京都や奈良、堺の有力土倉からも、それぞれの土倉券が、やがて発行されるようになり、応仁の乱前夜には、多くの種類の紙幣が流通することとなる。
様々な銀行券が流通する様子は、二百年後十七世紀後半のロンドンに似ていた。




