蒸気機関
七月、楠葉西忍が遣明船に載せる眼鏡とシイタケを注文するために、外山の村を訪れていた。
話がまとまり、西忍が片田とともに慈観寺の本坊を出る。
「あれは、棉ですか」庭の左手を見た西忍が片田に尋ねる。
「ミアン、ああ、そうですメンです。綿です。ご存じなのですか」
「大陸で見たことがあります。こちらでも棉布を栽培しようというのですか。うまくいくといいですね」
「はい、明からお戻りになった頃には、増えているかもしれません」
「棉を栽培されるのならば、あわせて藍も育てたらいかがでしょう。藍は棉にもよく染まりますよ」西忍がそういって去っていった。
片田が好胤さんに、面会場所を貸してくれた礼を言って慈観寺を出る。この後に蒸気機関の試運転がある。
試運転は三度目だ。一度目は蒸気窯に繋いだパイプが圧力に負けて外れた。二度目はピストンリングが割れてしまっていた。
初期の、ニューコメンの蒸気機関は、竹製の水鉄砲のようなものである。
水が飛び出す側を下にした筒の中にシリンダーに接する径のピストンヘッドを上から差し込む。ピストンヘッドには棒が付いていて、この棒が蒸気により上下することで動力となる。以下、ヘッドとロッドを合わせてピストンと呼ぶことにする。
ニューコメンの蒸気機関はシリンダーの下の密閉した窯で湯を沸かし、蒸気を発生させる。気化して膨張した水蒸気が下からシリンダーに入りピストンを押し上げて仕事をする。
シリンダーが上限まで移動したところで、シリンダーに開けた穴より外から冷水を入れる。
冷水により冷やされた水蒸気が液化してシリンダーが下に戻る。これを繰り返す。
という仕組みだ。
この蒸気機関のする仕事は、物を上下させることである。
これに対しワットは以下の三つの画期的な工夫を行った。
・蒸気の冷却をシリンダーの外に取り付けた冷却器でおこなうことにより効率を上げた。
これまではピストン上下のたびにシリンダーが冷却されていたので温めなおすために蒸気の熱エネルギーが失われていた。
・ピストンヘッドの上側にも気室を設け、移動する弁により上下双方から蒸気がピストンを押すことができるようにした。
ニューコメン式ではピストン下降時の力は大気圧が限界だったが、その限界を超えた高圧でピストンを押し下げることができる。
・上下運動を回転運動に変更するクランクを設けた。
どれも、目を見張るような改良だった。
一番目の改良で、同じ仕事をするために必要とする燃料が半分以下になったという。
また二番目の改良で、ピストンの径を小さくしても大きな力がだせるようになり、蒸気機関が小型化した。さらに上下同じ力で押せるので、定速回転運動を導きやすくなる(自転車を右足だけでこぐ場合と両足でこぐ場合を想起されたい)。
最後に三番目の改良で、回転する動力を手に入れた。回転する動力は使い勝手がよい。旋盤、紡織機などの機械や蒸気機関車、蒸気船にとって都合のよい動力だった。
片田が粟原川沿いの道を片田村に向かって登っていく。鍛冶工場の隣に蒸気機関の試作機が置かれていた。
子供や見物人が定められた距離を置いて試作機の方を見ている。
「お、大将が現れたぞ」そういって鋳物職人や鍛冶職人たちが慌ただしく中断していた作業を再開する。
「始めていいか」鋳物職人の親方が訪ねる。彼が現場を仕切っている。
「ああ、頼む」片田が答える。
親方が合図して、蒸気窯上部の開放されていた『逃がし弁』を閉じる。シューという蒸気の音が静かになる。
「石炭を追加しろ」
蒸気窯内の圧力が上がっていく。機関につながるパイプにブルドン管ゲージという圧力計が付けられている。その針が少しずつ動き始める。
この計器は、カマボコ型の断面を持つ真鍮菅であるブルドン管が入っている。管の一方は開いていて、反対側は閉じている。
ブルドン管はカマボコ型の平たい面を内側にしてまるくC字型に曲げられている。
管の開いた側から気圧をかけると、平たい面が膨れようとしてC型の半径を大きくしようとする。膨れると、管の閉じた側の端にとりつけた小さな金属棒が動く。その小さな動きを扇型歯車で拡大して、指針を動かす。
MKSA単位系を採用しているわけではないので、目盛板の数字は目安である。
圧力計の指針が赤い目印の所に近づく。蒸気窯の頂上にある安全弁から空気の漏れる音がし始める。この弁は、窯が上限圧力以上にならないように取り付けられている。
「機関、接続するか」鍛冶職人の親方が片田に言う。
「繋げてくれ」
親方が、まず、蒸気機関と復水器の間の弁を開ける。その後蒸気窯と機関の間の『絞り弁』を少しずつ開き始めた。
ガタン、という音がしてピストンロッドが押し出されてくる。クランクを経由してホイールが回り始めた。
鍛冶の親方が片田の方を見る、片田が頷く。親方がさらに『絞り弁』を開く、ホイールの回転が速くなってきて、唸りをあげる。圧力計の針が少し戻る。片田が片手で復水器のポンプを押す。手触りから、まだ復水器内に水は溜まっていないことがわかる。
「『絞り弁』半分だ」親方が言う。ホイールは高速で回転している。
前回は、このあたりでピストンリングがやられた。悔しがった鍛冶職人達が寝るのも惜しんで改良したリングは、まだ持ちこたえている。
「『絞り弁』三」片田が言う。弁を四分の三まで開けということだ。
ホイールが風を切る音が聞こえてくる。
「『絞り弁』三」親方が言う。機械は安定しているようだった。
「『絞り弁』全開」片田がさらに指示した。
「全開」親方が応える。ホイールは見るのも恐ろしい程の速度で回っていた。
皆がその回転を見つめる。
鋳物職人の親方が、蒸気窯に水を、その下の炉に石炭を追加する。
それを見た片田が復水器のポンプを押す。水が溜まり始めていた。ポンプを手で上下し、復水器内の水を蒸気窯に戻してやる。しばらくすると、また手ごたえが無くなった。
半刻(一時間)程そのまま運転を続ける。
「よかろう、設計を満たしたと認める。徐々に『絞り弁』を閉じよ」片田が試験の成功を認めた。
「明日は最初の負荷試験を行う」
職人たちが歓声をあげる。彼らはこの七か月程、休みなく働いてきた。その成果が出た。小屋の方に駆けていき、酒の瓶や、ツマミにする食料を持ち出してくる。小躍りしている者もいる。座って、なにか唸っているものもいた。
皆、一様に笑っていた。




