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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 外伝
211/618

綿(わた)

 夏が終わろうとしている頃、一艘いっそうの小舟が三河国みかわのくに矢作川やはぎがわの河口あたりに流れ着いた。

 周辺の漁民が中をのぞいてみると、異形の男が倒れている。

 漁師が川から真水を持ってきて、手拭てぬぐいに浸して男の唇に当ててやる。


 死体のように動かなかった男の唇がわずかに動く。漁師がさらに手拭に水を含ませると、次第に力強く水を飲んだ。

 手拭の水を変えてやろうとすると、男が左の手を挙げ、手拭をつかむ。


「やれ、息をふきかえしそうじゃ」漁師達が安堵する。


 しばらくして、男が上半身を起こす。袈裟けさのような上着を着ており、はかまは身に着けていない。肩や腕はひどく日焼けしており、赤くただれている。

 漁師達が話しかけてみるが、言葉が通じなかった。


 小舟に置いておく訳にもいかないので、ある漁師が最寄りの官衙かんがに通報した。役人達がやってきて、男を連れていこうとする。男は意味が分かったのか立ち上がり、小舟にあった一弦琴と壺を抱える。

 役人が男からそれらをあずかり、連れて行った。


 郡衙ぐんがで体力を回復した男は国衙こくが(当時の県庁)に送られて、身分を改められた後、近くの国分寺に預けられた。

 しだいに言葉を覚え、意を通じることが出来るようになった。


 彼は自分の事を天竺てんじく人だという。小舟から持ってきた一弦琴を常に脇に置き、暇な時には演奏し、もの悲しい歌を歌う。


「小舟から持参した壺には何が入っているのか、大切なものなのか」唐僧が訪ねると、

「いや、あれは『パハ』の種だ。漂流しているとき食料にしていた。大切なものというわけではない。そうだ、来春に寺の庭で育てて見せよう」そう言って、壺から植物の種を出して僧に渡した。

 僧はその種を都に送ることにした。


 翌年男が撒いた種は二か月ほどであおいのような黄色い花を咲かせた。花が枯れたあと、さらにひと月たつと、花の付いていたところに大きな殻が出来、それが割れると中に白い繊維が丸まっていた。


「Ni Pah, これが『パハ』だ」




 片田は矢木の市の塗師座にいた。興福寺からの注文を塗師屋に伝えに来た。伝え終えた片田が塗師屋の並べている商品を眺める。


「あれは、何だ」片田が指を指す。

「お、『じょん』、目が高いな。あれは上物だ」塗師屋が得意げに言う。

「いや、あの漆器しっきを包んでいるものだ」

 高級そうな漆器が桐の箱におさめられ、箱と漆器のあいだに白い綿が詰められている。

「なんだと、漆器をめたんじゃないのか。あの漆器を包んで守っているのは『ぱは』だ、伊那谷の漆師が送ってくる高級品によく使われている」

「綿じゃないのか。ちょっとそれ、よく見せてくれ」


 塗師屋が漆器を取り出して、桐箱を片田に渡す。片田が手に取ってみる。確かに綿だ。この時代の日本に綿があるのか。


「この、なんだ『ぱは』というのか、『ぱは』の種が手にはいらないだろうか」

「さてな、伊那谷の職人に尋ねてやろう」




 伊那谷の職人から、綿の実が届いた。漆器を詰める時に捨てていたものを集めて送ってくれたそうだ。

 また『ぱは』は三河総社の周辺で栽培されているそうだ、とも言ってきた。三河総社と言えば現在の愛知県豊川市のあたりだ。古代には名鉄国府駅近くに三河国の国衙、国分寺、総社が集中していた。


 翌年(片田が外山の村に来た二年目)の春、片田が慈観寺じかんじの一角に綿の種をく。硬貨を二つに割ったような双葉が出てきた。苗が育ち、かえで型の本葉がたくさん茂る。無数の黄色い花が夢を見るように開き、散っていった。

 片田は、わくわくしていた。


 花が終わった後、枯れた殻が膨らみ、膨らみ切ったところで、ついに裂けて中から綿が出てきた。

 木綿が作れるぞ。片田が思った。


 綿織物はイギリス産業革命の起動力であった。綿布を作りたいがために、紡織機を作り、それを水力で、そしてやがて蒸気機関で動かすようになった。動力機関を高性能化するために製鉄業や機械工作が発展した。蒸気機関は鉄道や蒸気船を生み出した。

 綿織物を安く大量に作ることができれば、国内はもちろん、周辺国にも売れるだろう。その方法は片田の頭の中に入っていた。




 この天竺人については平安時代初期を記録した歴史書、日本後記に残されている。延暦十八年(西暦七九九年)、桓武天皇の御代みよのことである。

 いまは海岸線がずっと沖に移動してしまっているが、天竺人がたどりついたあたり(愛知県西尾市天竹町)には天竹てんじく神社があり、漂着した天竺人を新波陀ニイハタ神という綿の神として祭っている。ニイハタとは東南アジアで使われている言葉、チャム語の「ニー・パハ」(これは綿だ)から来ているという。


 なお、当時の日本は翌年、多くの場所で綿の栽培を試みたとされているが、定着しなかったようである。


日本後紀 卷第八 桓武天皇


延暦十八年(西暦七九九年)七月,有一人,乘小船漂著參河國.以布覆背,有犢鼻,不著袴,左肩著紺布,形似袈裟.年可廿,身長五尺五分,耳長三寸餘.言語不通,不知何國人.大唐人等見之,僉曰:「崑崙人.」後頗習中國語,自謂天竺人.常彈一弦琴,歌聲哀楚.閱其資物,有如草實者,謂之綿種.依其願,令住川原寺.即賣隨身物,立屋西郭外路邊,令窮人休息焉.後遷住近江國國分寺.



日本後紀 卷第九 桓武天皇


延暦十九年四月,庚辰,以流來崑崙人賚綿種,賜紀伊、淡路、阿波、讚岐、伊豫、土佐,及大宰府等諸國,殖之.其法先簡陽地沃壤,掘之作穴,深一寸,眾穴相去四尺.乃洗種漬之.令經一宿,明旦殖之.一穴四枚,以土掩之,以手按之.每旦水灌,常令潤澤,待生藝之.


                 類聚國史巻百九十九 殊俗部  國史大系本に拠る


 なんと!日本後紀(完成西暦840年)に「中国語」という言葉が出てきました。平安初期の知識人は、大陸の唐人が話す言葉を公式の文書では中国語と記述していたようです。

 日本後紀は勅撰史書ですから、公文書中の公文書です。

 以前、『なろう』の感想で、『室町時代の日本人が明国の事を中国と言うだろうか』と、ご指摘いただいたことがありました。わたしも『たしかにそのような文は読んだことがない』と思い、修正したことを覚えています。

 本文では以前のご指摘を踏まえ「中国語を習い」ではなく「唐の言葉を習い」としておきました。

 さて、真相やいかに。

 日本後紀は散逸が激しく一部偽書が作られているとのことですが、引用した第八巻は三条西家に現存していたものだそうです。


【追記】

中国=漢字文化圏における自国の美称です。というご指摘をいただきました。ありがとうございます。


後紀にある『中国語』が日本語の可能性が高そうなので、どちらともとれるような表現に本文を修正しました。




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― 新着の感想 ―
[一言] >公文書 >中国語  太平洋戦争後のように属国化のために白村江の敗戦後、唐から仏教勢力と共に人が入ってきて、忖度した皇族や上位の公家に唐からの血統が交じっているという異説だと、天武帝の即位…
[気になる点] 豊川市は愛知県ですね。
[一言] 中国は漢字文化圏における自国の美称です。 日本やベトナムでも我が国という意味で中国が使われている例があります。 当然のことながら最初に中国と自称したのは「中国」なので、中国=「中国」と言う意…
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