製紙(せいし)
片田村を貫く粟原川の川沿いに人の腰程の高さの竹筒が幾つも立てられていた。
竹筒の上にはリンゴ程の大きさのビンと風車が付いている。『ふう』が背負子を降ろし、背負子のビンと風車のビンを交換する。背負子には格子が付けられていて、十二個のビンがぶら下がっている。
「これで全部交換したわね、『じょん』のところに戻ろうか、犬丸」そういって『ふう』が振り返ると犬丸がいない。
「犬丸、どこにいった、犬丸」
道を少し戻ったところに、無人の神社があった。あそこだな。『ふう』が川辺に背負子を置いたまま、神社に向かって走る。
犬丸は神社の縁の下に潜り込んでいた。
社の床下の土は、雨があたらないので乾燥してサラサラとしている。人が踏み固めてもいないので、手で土を掬うことができる。
乾いた地面にすり鉢形の窪みが幾つもある。腹ばいになった犬丸が黒い蟻を一匹つまんで、窪みの中に落とす。
蟻はすり鉢の斜面を登ろうとするが、登るそばから砂が窪みの中心に滑り落ち、窪みから脱出できない。
すり鉢状の窪みは蟻地獄、ウスバカゲロウの幼虫の巣だった。
もう一匹、別の窪みに蟻を落とす。これも斜面を登ることができない。他に蟻はいないかな、と捜そうとしたところで『ふう』にどやしつけられる。
「犬丸、そんなところに潜ってないで、出てこい」
『ふう』の大きな声がした。片足をつかまれて、縁の下から引きずり出される。
『ふう』が説教しながら、犬丸の服についた土埃を落とす。
片田は磁石と電池の次に、紙の製造を行うことにしていた。紙の製造にはアルカリ性の水溶液が必要だった。アルカリの材料になる水酸化ナトリウムは食塩水の電気分解で作ることが出来る。
方鉛鉱や石灰石、銅は定期的に手にはいるようになった。現在もっとも不足しているのは動力だった。電池を作っても、一度放電してしまったら、それに充電する動力が水車一基しかない。
一方でフェライト磁石は、鉄さびと静電気で量産できる。
そこで片田はミカン程の大きさの小さな発電機を作り、回転軸に風車に繋ぎ川沿いにたくさん立てた。
発電機の下にビンを取り付けて四分の一ほどの高さまで食塩水を入れる。一日二日放置しておくと、電気分解で水素、塩素と水酸化ナトリウムが出来る。
ビンの上部に小さな穴が開いているので、分解された水素は大気中に放出され、ビンの中には塩素と水酸化ナトリウム溶液が残る。
南都の鋳物職人達が蒸気機関を作りかけているが、まだ完成していない。蒸気機関が完成したら、石炭火力発電が出来るようになるし、動力にもなる。それまでの間のつなぎとして風力で塩素と水酸化ナトリウムを集めていた。
蒸気機関の完成を待たずに製紙に取り掛かることが出来る。
この時片田が考えていた蒸気機関は蒸気機関車のようなレシプロ式蒸気機関である、タービン式蒸気機関は数年後『ふう』が風車を見て考案するまで待たなければならない。
現代的な製紙方法では、アルカリ水溶液に水酸化ナトリウムと硫化ナトリウムの混合液に幾つかの添加物を加える。
硫化ナトリウムを作ることは簡単だが止めておこう、片田が決めた。
硫化ナトリウムを使うと周囲に悪臭を撒くことになる。片田村の村人に思いっきり嫌われることになるだろう。
丸太の皮を剥き、斧で適当な大きさに切る。それを鋳物職人達に作ってもらった手回し粉砕機で粉砕してチップを作る。
このチップは木材の繊維と、それを固く結びつけるリグニンで出来ている。木材が固いのはリグニンのおかげである。木材中のリグニンの割合は二、三割と言われている。
砕いたチップを水酸化ナトリウム水溶液の中に入れて煮ると、リグニンが溶けてセルロースが残る。笊で繊維などの固形物のみ掬い上げて洗浄し、回転する樽でゴミを遠心分離する。
このあと、将来さらし粉がふんだんに使えるようになった時には漂白してやることにするが、今は薄茶色のまま次の工程に進む。
四角くて目の細かい金網を揺すり、繊維を均すようにして救い上げる。この工程を手漉き、という。
平たい板の上に逆さまに繊維を落として、金網をもち上げる。
板に残った繊維を円柱上の木材で押しつぶして脱水する。
脱水したあとは、板ごと乾燥場に持っていき日陰で乾燥する。これで紙が出来た。
リグニンが溶けたアルカリ液であるが、ある程度リグニンが濃くなったところで、煮て水分を蒸発させる。水がなくなったリグニンは燃料として使うことができ、燃え残った灰から不純物を除いて水酸化ナトリウムを回収する。
良質の紙が出来たので、十市遠清に相談し、興福寺の尋尊さんに献上することにした。
「片田か、よく来た。今日は何を持ってきた」尋尊さんが訪ねる。片田が来る時は、なにか新しい物を持ってくるのが常だからだ。
「本日は、紙を作ってまいりましたのでお納めください」そういって紙束を包んだ麻布を差し出した。尋尊さんが開けてみる。
「ほう、これは目の細かい紙じゃの、墨が良く載りそうじゃ」
「まだ、試しに作ったものですが、安くたくさんつくることができるようになると思います」片田は、手漉きの部分以降を自動化しようと考えていた。
「紙がたくさん手に入るというのは、ありがたいことじゃ」
「それと、このようなものを作ってまいりましたが、お使いになられますでしょうか」そういって『あや』が作った眼鏡箱を差し出す。
「それは、なんじゃ」
「眼鏡を入れておくものです。使わないときに」
「眼鏡を入れる、か。懐に入れる時などに便利そうじゃな」そう言いながら、箱を開ける。中には濃い絹布が張ってあった。
「よし、購入してやろう。いかほどじゃ」
「五百文です」
「わかった」尋尊が頷いた。
尋尊が退出したあと、周囲の僧から幾つもの眼鏡箱の注文が来た。『あや』は忙しくなるだろう。
本編にて、製造過程を述べずに登場させていた電池と製紙について、私の中で宿題となっておりました。
めでたく片田に製造させてやることができました。




