三種の神器
二年目の夏だった。昨年外山の村人の農作業を見ていた片田は、まず田打ち車という田の除草を行う道具を試作した。
それが完成したあと、三つの機械をさらに試作していた。
稲を収穫した後、それを米にするためには幾つかの工程がある。
・乾燥 刈り取った稲を稲架という木組みに逆さまにぶら下げて乾燥させる。
・脱穀 乾燥した稲穂から籾という米が入っている粒を取り外す。
・除塵 籾に交じる藁や、空っぽの籾などを取り除く
・籾摺 籾を摺って、玄米と籾殻を分離する
そして、もう一度除塵して、玄米のみを取り出す。
この時代、外山の村人は、まず、二本の箸の片側を縛った扱箸というもので、稲穂を挟み、稲穂を引っ張って籾を取り外していた。
取り外された籾は、笊の上で軽く振ってやり重い籾と軽い藁などを分離した。
さらに木製の籾摺臼を使って籾殻を取り除く。
この臼は上下二つに分かれていて、重なるところに放射状に溝を刻んでいる。上臼の中心の穴から籾を落としてやり、上の臼を回して、溝のところで籾がこすれて玄米から籾殻を剥がすという仕組みだった。
はがれた籾殻と玄米を分けるのも、笊を使っていた。
どの工程も大変人手のかかる作業であった。
片田の育った大正・昭和の時代、これらの作業は機械化されている。脱穀には足踏み脱穀機、除塵には唐箕、籾摺には籾摺り機があった。
機械とはいっても、木材と、釘、針金などで出来ていて、大体の原理は片田にもわかる単純なものだ。用意出来ないのは籾摺り機のゴムシートぐらいだろう。これは麻布で代用すればよい。
片田は石英丸や茸丸達と試作し、茸丸の父親の田で実験してみることにした。村人達が集まってくる。
まずは足踏み脱穀機だ。茸丸の父親が刈り取って乾燥させた稲を持ってくる。茸丸がバネの付いた踏板を繰り返し踏むと、太鼓のような筒が回り始める。筒の表面には太い針金を曲げて刺した歯を多数とりつけてある。
回転する歯に稲穂を上から当てると、面白いように籾が外れて前に飛んでいく。
飛んだ籾は、前に広げた筵の上に積もっていく。
次は唐箕である。唐箕は円盤と箱を組み合わせたような形をしている。円盤には「取っ手」が付いており、これを回すと円盤の中で羽が回り、隣の箱の中に向けて横向きに風が吹く。
箱の上から藁やゴミまじりの籾を落としてやると、その軽重により、籾は下に落ち、藁やゴミは風下に流されて落ちる。これは片田が担当した。
最後は籾摺り機だ。これは麻布を巻いた二つの木製の円筒で出来ている。二つの円筒は密着されていて、芯のところに取り付けられた歯車で回転するようになっている。歯車はわずかに大きさが異なる。そのため、円筒同士の接点部分が擦れるように動く。
この接点部分に上から籾を落としてやると、回転速度の差で籾殻が摺られて玄米からはがれる。石英丸がやってみせて、得意そうな顔をする。
分離された籾殻と玄米は再度、唐箕にかけてやれば玄米だけがより分けられる。
「おどろいたもんじゃのう。あっという間に稲が玄米になりよった」
「ほうじゃ。今までの苦労はなんじゃったんだ」
村人たちがあきれ返った。
米は籾の状態で保存するのが一般的だった。そのため、農家は秋の一時期、脱穀と除塵に忙殺されることになる。それが、この機械があれば、あっという間に出来てしまうということになる。
材料となるバネや釘、針金などは、片田村で作ることが出来る。原理は難しいものではない。片田達の試作機があれば、見様見真似で同じ物を作ることが出来るだろう。
五人の男衆が組を作ってやってきた。外山の村人ではなく、片田村の男たちだった。木工作が得意な男たちだった。
「三種の神器を売って儲けようと思う」代表の男が言う。
「三種の神器って、脱穀機、唐箕、籾摺り機のことですか」片田が言う。
「そうだ、あんな便利なものはない。飛ぶように売れるだろう」
「幾らくらいで売ろうとしているのですか」
「皆で相談したんだが、一つの村に一つ売るとして、脱穀機と唐箕はそれぞれ十貫、籾摺り機が一貫というところで売ってみたい」
「さて、便利なことは便利ですが、一年で数日しか使わないものに、そんな大金を出すでしょうか」
「農家一軒で一つ、というのは無理だろうが村の寄合に売るというのであれば、農家が少しずつ銭を寄せて二十貫くらい出せるだろう。こう思ったんだ」
寄合というのは農村の合議体である。農民にではなく、村に売るというのはいい考えだった。
「最初の年は、そうですね、それぞれ十台程作って様子を見てみたらどうでしょう」
男たちはそれでいい、と言った。
片田は木工場とその道具を使うことを許した。木材は外山の村の木挽きから買う。釘や針金などは片田村の鉄工場から購入できる。
彼らの試算では、それぞれ十台作るのであれば、材料も併せて、二十貫もあれば十分だという。
片田は融資することにした。この頃には男が集まった組にも融資が始まっていた。
彼らは秋から翌年の夏にかけて、片田村での木工の合間を使って、それぞれ十台の三種の神器を製造した。
彼らの考えた定価で売れた時には二百二十貫になる。片田から借りた二十貫を返しても、二百貫残る。次の年からは片田から借金しなくとも作ることができるようになるだろう。




