競争
すこし前に戻って、『おたき』さんが店を出した時の話をする。
『おたき』さんは、片田から借りた五十貫で番匠(大工)の作業場跡を改装した。土間だったところを半分板の間にし、屏風を立てて仕切りとした。
土間の奥は調理場として、客席との間に区切りを置いて見えないようにもした。
入口の所には手水鉢を置き、客が手を洗えるようにする。
客は板の間に座り、素木の三方に置かれた『しろむすび』を手づかみで食べる。
『しろむすび』は経木や竹の皮に包まれており、塩味と味噌味、一つずつに糠漬けの香の物が添えられている。大きさは、この時代にしては小さめで、米一合で『しろむすび』一食である。『むすび』の中身は飯だけで、サケや昆布などの具材は、まだ入っていない。
店内で食べると四文(三百円程)、店頭で購入して持ち帰る場合には三文で売り出した。
店内の方が高いのであるが、女性客や子供連れは店内で食べることを好んだ。男衆のなかには二つ、三つまとめて食べる者もいた。
『外山のしろむすび』は有名になっていたので、『おたき』さんの店は毎日二百人から三百人の客が訪れた。一年もしないうち片田から借りた五十貫が返せそうな勢いだ。
『おたき』さんの店の繁盛ぶりを見た村の女が組を作り、『しろむすび』屋を開きたいといって片田の所に融資を申し込んでくる。
片田が『おたき』さんに相談する。
「いいんじゃない。飯屋を開きたいというのなら、開けばいいわ」自信があるらしい。
片田は試しに二組に飯屋の開店資金を融資した。
二組の内、片方は外山の村の西側に店を構えて「元祖しろむすび」と名乗った。
もう片方の組は慈観寺より少し東に開店して「総本家しろむすび」と看板を掲げた。
『おたき』さんの店に来る客が一日に百人を下回るようになる。
「なにが総本家よ、あほぬかせ」『おたき』さんがそう言いながら、片田に割り箸を作ってくれと依頼した。
片田は石英丸達に指示し、割り箸の試作品を作らせた。
「手の汚れない、しろむすび」『おたき』さんが店の前に幟を立てる。元祖と総本家に東西をはさまれた『おたき』さんの店は、北の奈良方面から来る客が頼りである。
割り箸を使って『しろむすび』を食べるという方法は女性客に人気となった。長谷寺の僧房あたりで話題となったのだろう。長谷詣りから帰る女性客達が『おたき』さんの店に寄るようになった。
女性客にはオマケとして糠袋を渡した。
「これで顔を洗うと、肌がきれいになるわよ」
元祖と総本家も真似をして、割り箸を使うようになる。いつまでも子供たちに割り箸ばかり作らせているわけにもいかないので、融資を申し込んでくる組の一つに割り箸作りをもちかけた。その顛末は前回書いた。
しばらくして、また一日の来店者数が百人を切ったところで『おたき』さんが店頭に『ひのまる』という文字を書いた幟を立てた。
「『ひのまる』って何ですか」片田が『おたき』さんに尋ねると、彼女は笑いながら『しろむすび』を差し出した。
片田がそれを食べてみる。
「これは、梅干しですね」むすびの中に種を抜いた梅肉が入っていた。
「そうよ、おいしいでしょう、次はシイタケを煮締めたものも作ってみるわ」
茸丸のシイタケ小屋が軌道に乗り、シイタケが外山の名産になりはじめていた。
経済学で言うところの『競争』である。
『おたき』さんは、片田が言っていた卓子と椅子も試してみることにした。
土間にそれらを並べ、座ってみる。
「ふうん、なかなか居心地がいいわね。これだったら三方が無くても食べられるし」箱膳のようなものがいらないという意味だ。
彼女は椅子に座ったまま、しばらく『しろむすび』をもち上げてみたり、箸を卓子に降ろしてみたりした。
「ようし、これはいけるぞ」
翌日、『おたき』さんは矢木の市に行き、飯碗、汁椀、総菜鉢、小皿などを購入した。
飯が碗で、汁が椀なのは何故か。陶器製の物を碗と言い、木製の物が椀である。
飯碗には白米で炊いたシイタケご飯、汁椀にはシイタケの潮汁、鉢にはシイタケと野菜の煮物、小鉢には季節の糠漬けを盛り、これらをお盆の上に載せて、椅子に座る客の前の卓子に出す。
定食のようなものが出来上がった。『おたき』さんは、これを『花の御所の椎茸御膳』と命名し、四十文で売り出した。
旅の食事として、四十文は非常に高額であったが、シイタケといえば天然の物しかなかった時代である。これは評判を呼び、椎茸御膳を食べるためだけに外山の村を訪れる者が現れた。
それまでは、旅の途中で食べる物といえば、腹の虫を抑える程度だったものだった。それが旅の目的になるまでになった。加えて朝晩二食が普通であったところ、昼日中に食事を取るという文化がうまれた。
室町時代の日本で、『競争』と、それに伴う『価値の創出』が始まっていた。




