『とび』の村
薄暗く湿気のあるところに横たわっていた。背嚢のせいで、背骨がのけぞり、苦しいので上半身だけ起き上がった。軍刀と拳銃を確認する。無事だ。手触りでは石畳のようなところにいるようだった。正面に四角形に光る出口があった。
立ってみる。痛くない。片田は自分の両足を見た。狙撃兵にやられたはずの傷がなかった。試しに歩いてみる。大丈夫だ。
出口に向かい、外に出てみた。新緑の森だった。
日本に帰ってきたかのような光景だった。
左手の方から人がやってくる音がする。
「きゃうといなゐだっちゃなぁ、『ふう』ちゃ」(おっかない地震だったねぇ、『ふう』ちゃん)
「そうやったなぁ、犬丸」(そうだったねぇ、犬丸)
日本語のような、そうでないような不思議な言葉だな、と片田は思った。
左の茂みの向こうから十歳くらいの女の子と、五歳くらいの男の子があらわれた。片田と二人は、ほぼ同時にお互いに気づいた。
「たそ」(誰なの)そういって女の子は、腰に差していた小刀を抜いた。
片田は、危害を加えるつもりがないことを示すため、両手をあげ、手のひらを女の子に向けた。
「なにもしない、悪い者ではない」と、片田は言ってみた。通じるかな。
「あやしのさま」(変な恰好だねぇ)と男の子が言った。
その言葉に女の子が噴き出したように笑った。
「村にいざなふ、とく歩め」(村に連れて行く、さっさと歩け)女の子はそう言って小刀で、片田の右手に伸びる小道の方を指した。油断はしていないようだ。
「わかった、わかった」そういって片田は従う意思を示した。
「いざなふ!」女の子は強く繰り返した。
わかった、という言葉は通じないようだ。片田はすこし考えてこう言った。
「いざなわれる」
「よし」女の子が言った。なんだろう、まるで日本の古い言葉のようだ。適当に言ったが通じたようだ。
片田は右を向き、小道を歩き始める。二人の子供は、その跡をついてくる。
「はかまかの」(袴かなぁ)男の子が言う声が聞こえた。
「はてな」(どうだろうか)女の子が答えた。
片田は、さっき女の子が噴き出した理由がわかった。軍服がよほど不思議に見えたのだろう。
「かのをのこ、悪しきものにあらずや」(あの男の人、悪い人じゃないんじゃない)
「しばし」(もうすこし様子を見よう)
どうにも、昔習った古典のような話し方だ。
「かのもの、たちもてり、いかなれば、ふうにしたがふ」(あいつ、太刀をもっているのに、なぜ『ふう』に従うのか)
「『ふう』はおそろし」(『ふう』は恐ろしいのだ)
よく聞き取れるわけではなかったが、片田はすこし面白くなってしまった。生きて虜囚の辱めを受けず、とか言うが、こういうのであれば楽しいものだ。ちょっとからかってみたくなったので、なけなしの古典の知識で尋ねてみた。
「名を問う。我が名は片田順なり」
「かただ、じょん」男の子が言った。
「じゅん、だ」
「じゅ、じゅ、じょん」じゅんという発音が言いにくいようだ。
「じょん、でよい」
「かただ、じょん」後ろを振り返ったわけではないが、男の子の声が嬉しそうだった。
「そうだ、かただ、じょん、だ」
「われは『いぬまる』!」男の子は言う。
「『いぬまる』、か」
「そう、『いぬまる』」
「女子のほうは、名はなんという」
「……」
「名がないのか」
「……『ふう』」
「『ふう』、か、良い名だ」
「『いぬまる』は、『いぬまる』は」
「『いぬまる』も良い名だ」
「これからいく村はなんという」
「『とび』、『とび』の村」
「『とび』の村か」
林を抜けると、すこし小高い位置にいた。目の前を、手前から向こうに川が流れている。その両側には一面の田と、ところどころに住居がまとまっていた。田はきれいな升目をなしていた。
手前の、川が山から里に出るところにいくつかの住居がまとまっている。川の反対側には寺のようなものがある。
「あれが『とび』の村か」
「そうだよ」
片田はあきれた。ここは日本ではないか。つい昨日までニューギニヤの山林にいたはずなのに。
里に下りると、田植えの時候であった。何人かの百姓が、小刀をつきつけた小娘と童が奇妙な姿の男を捕虜にして歩く姿を不思議そうに見ていた。
環濠を越えて集落に入る。大人たちが幾人か集まってきた。ふうが、事情を説明し、大人たちが相談していた。片田は心細いものの、同じ日本人ならばそれほど酷い扱いは受けまい、と思っていた。
結局寺に預けよう、と話がまとまったようで、慈観寺の和尚なる者を呼びに行くことになったらしい。
慈観寺の宿坊。片田と僧侶が向かい合って座っている。
「まず、そのたちをあずけよ」
僧侶が言った。緊張しているようだが、無理もない。片田は佩環を外し、僧侶の前に軍刀を差し出す。僧侶は軍刀を両手で掴み、片田に一礼して、脇に置いた。
「おまえさまのすじゃうをたづねねばならぬが、ようすをみるにおまえさまのほうにもたづねたいことがたくさんあるようじゃ」
片田は頷いた。
「では、おまえさまのたづねたいことから、先に済まそう。そのほうがはかどるじゃろ」
年齢は四十くらいだろうか、話の分かる人間のようだ、と片田は思った。そこで思い切って聞いてみることにした。
「ここは日本ですか」
僧侶は目を大きく見開いて、一呼吸おいて大声で笑った。
「『ふう』がいとかわれりといえり、いでや、ゆゆし。そうじゃ、ここは日ノ本じゃ」
「今年は何年ですか」
「ことしは、文安の六年じゃ。百姓どもに日をだづねられることはあるが、年をたづねられるとは」
文安六年が西暦でいつのことだか、片田は知らなかった。さてどうしよう。少し思案した後、片田はこう尋ねた。
「この国で、今一番偉い人はどなたです」
「えらい、とな。あのおかたをのぞけば、将軍様じゃろうか」
将軍がいるのか。
「将軍様のお名前は」
「こりゃ、近頃はやりの禅問答みたいなもんじゃな。そう、いまは将軍様がおらぬが、もうすぐ義成様が将軍様におなりになるはずじゃ。足利義成さまじゃ」
足利、ということは室町時代にいるということか。村の景色から明治維新後では無さそうだとは思っていたが、そんな昔にいるのか。義成って足利将軍がいただろうか。片田は思い出せなかった。
なぜ、こんなことになった。どうすればいい。
「すこし顔が青いようじゃ、だいじょうぶかの。聞きたいことはそれだけか」
「とりあえずは、今お伺いしたことをよく考えてみたいと思います」
「うむ、日ノ本と文安六年と、将軍様で考えることがあるのか。よかろう、ではわしの方からもたづねる。まずわしは、この慈観寺の住職の好胤という者じゃ。おまえさまの名前と歳、所をたづねる、うらなくのべよ(隠し隔てることなく言え)」
「片田順、二十歳です」
「ここに筆と紙がある。書いてみよ」
片田は、自分の名前と、年齢として二十歳と書き、出身地として長野縣と書いたが、長野縣を棒線で消して、となりに信濃諏訪と書き直した。
「片田が氏で、順が名か。氏を持つということは武家であろうか。信州とは小笠原様の者かのう。文字のあり様は、あまりよからぬが、それでも読み書きは出来るのじゃな」
「武家ではありませんが、いくさびとではあります。信州といっても今の信州ではないので、その小笠原様という方の家臣ではありません」
不思議なもので、お互いに自然と歩み寄るのか、だんだん互いの言葉が理解できるようになってくる。片田も、軍人を『いくさびと』と言い直すなど工夫をする。
「今の信州ではないとな、いつの信州じゃ」
「それが……どうも五百年後くらいの信州のようです」
「五百年とな、まめなるか(本当のことか)」
「分かりません。でもそう思われるのです」
「ふぅむ、それやあやしのことなり(不思議なことだ)」
この時代、国が異なれば話し言葉が異なる。そのため会話が通じにくいことはよくあることだ。従って、好胤の側から見た時、この若者との会話が通じにくいのは、そんなに不思議なことではない。また現代人のように学校で科学を学習しているわけでもないので、五百年後の未来から来たといっても現代人ほどの衝撃は受けない。なにしろ、輪廻転生や五十六億七千万年後のことを説教するのが彼の仕事なのだ。だから好胤の受けた印象は「不思議なことだ」止まりである。
そうは言っても、このようなことを村の者に話した時、どうなることか。
「とまれ、信州から流れきた者だ、ということにしておくか。いくさびとと五百年後のことは口外してはならぬ。あらぬうたがいをまねくであろう」
未来から来たということと、軍人であることは黙っておけ、ということだ。他国の兵であるということになると、それだけで嫌疑がかかるということである。
「おまえさまは気づかなんだろうが、わしが来る前までは、怪しいよそ者だということで、殺してしまおうかという相談をしていたのじゃ。犬丸になつかれていたのが幸いじゃった」
片田は肝を冷やした。同じ日本人だからと高を括っていた自分の迂闊さを思い知らされた。そういう時代なのだということを忘れないようにしなければ。
好胤は、一方で村人たちが、『ふう』に小刀で脅されて、ついてくるような『うつけもの』(おろかもの)ならば、人買いにでも売ってしまえ、と相談していたこということは言わないでおくことにした。
「とりあえず、この寺の寺男にすなり(寺男ということにしよう)」
好胤が言った。片田はほっとした。居場所が出来た。
その日の夕方。好胤と二人きりの夕食を摂った。二人は向き合い、それぞれの前には一人用の食膳が置かれた。村の女性が料理などの世話をしてくれた。食事は玄米のご飯、十センチほどの干しイワシが二つ、ソラマメ、青菜が入った塩汁、タラの芽の塩茹でだった。
「前に居た寺男は、去年のはやり病で亡くなってしもうた。以来この寺はわしひとりでの。村の者が来て手伝ってくれるのじゃ」
「おまえさまが寺男をしてくれれば、村の者に頼むことが減り、すこしは彼らも喜ぶじゃろ」
ラエを出発してから、まともな食事をしていなかった片田にはありがたい食事だった。けれど軍隊で白米に慣れていたので、できるならば白米が食べたいものだと思いながらいただいた。
食事を終えて、宿坊の隅にある三畳ほどの使用人部屋を与えられた。火を使うことは禁じられていたので、好胤の持つ手燭の明かりで藁布団を広げ、あとは寝るしかなかった。
布団の中で考えた。なぜ室町時代に来てしまったのだろう。片田のいた時代、相対性理論はすでに知られていた。片田も分からないなりに言葉は知っていた。片田の時には相対原理と呼ばれていた。当初、日本の物理学者はrelativityを相対性と訳していたが、相対(あいたい、男女仲)の性はけしからん、ということで相対原理になった。しかし、相対原理の詳しい内容までは知らなかった。相対原理と言えば、光速度不変の原理とか浦島効果などが関係しているのだろう、という程度である。その理論が時間遡行を不可能としている、つまり時空の地平の向こう側には行けない、としていることは知らなかった。だからこのことについて言えば片田も好胤とさして異ならない。
一般相対原理は、ニュートンの万有引力の法則を強い重力場がある場合に拡張したものだが、その方程式はテンソル方程式である。テンソルとは数学でいうところの「行列」の親分のようなもので、3次元以上に拡張された行列だ。しかもそのテンソルが方程式だ、という意味は、行列のそれぞれの要素が演算子といって、偏微分方程式の一部をなしている(演算子とはf(x)のf()の部分のこと)ということだ。
片田の時代にはテンソルどころか、行列でさえ教育課程には入っていなかった。
たとえば、海軍士官は位置天文学を用いて、自分の船の緯度経度を決めるという教育科目がある。この位置天文学は行列を用いると非常に直感的に理解できるのだが、片田たちの時代の位置天文学の教科書では行列を展開した形で式が書かれている。一つの式が教科書の二行、場合によっては三行にもわたって三角関数の掛け算と足し算であらわされている。ラエで出会った海軍士官が片田に言うには、位置天文学の式は敵艦の大砲の弾より恐ろしい、とのことだった。
何が言いたいかというと、小難しいことを考えている内に、いつしか片田は眠っていた。