帰国
「マニラ・タワー、こちらオージー・エアフォース・キャット。レベル・エイト・ゼロでBANGIに向かっている。針路三四〇、着陸許可を求む」
「オージー・エアフォース・キャット、こちらマニラ・タワー、着陸を許可します。左パターンのダウンウィンド・レグに進入して、滑走路六に着陸してください。風は四十度から七十度方向で八ノットから十ノット程度です……」
PBYカタリナは第二次世界大戦で活躍した飛行艇だった。一九六六年時点では相当旧式になっていて、オーストラリア海軍でも飛行可能なものは一機だけなのだろうか。カタリナ(CAT)というだけで通用するようだった。カタリナの後期モデルは水陸両用であり、滑走路にも着陸できる車輪を持っていた。
主翼下の居住区に備え付けられている寝棚から体を起こす。そろそろ着陸のようだ。左機銃座に座って外を見る。海が切れて陸地になったな、と思ったとたんに掠るような音がして、カタリナが着地した。
ゆっくりと誘導路を進んだ後に、カタリナがエプロンに駐機する。外に出ると、日本大使館職員だという男が待っていた。
「片田さん、片田順さんですね」
「そうです。身分を証明するものは持っていませんが」
「かまいません、空港内に妹さんがお待ちです」
片田が振り向くと、カタリナの機長が親指を立てた。片田は手を振った。
マニラから羽田までは、日本航空の定期便だった。コンベア八八〇、AYAME号が片田を運んだ。
羽田空港では、多くの人が日の丸の紙旗を振って迎えてくれた。出征の時、諏訪の人たちが旗を振って送ってくれたことを思い出す。
戦争に負けた、と聞いていたが日本は変わっていないな、そう片田が思った。
片田が属していた第五十一師団の師団長が生存していた。その師団長が羽田空港に来て、片田に除隊を命じた。片田の実在職期間が二十五年となり、それなりの恩給をもらうことになった。
片田は両親が住む諏訪の実家に帰った。新聞社やテレビ局とかいうものが、しきりに取材を求めてきたが、総て断ってもらった。片田の関心は現代の日本より、道半ばにして去ることになった室町時代にあった。
近所の図書館に行く。和泉共和国や片田村はどうなっただろう。日本史の本を探してきて読み始める。
【応仁の乱が始まる頃、奈良県桜井市のあたりに片田衆という技術集団が現れた。彼らは火薬や銃を作り、やがて和泉国、淡路国を奪い、堺の港を中心に繁栄した。片田衆は、琉球や東南アジアに進出して交易を行い大いに栄えた。
片田衆は、室町幕府に属さず、皇室を奉じていた。後の加賀一向一揆に影響を与えたように、領主や国人を持たず、民衆の中から任期付きの為政者を選び自治を行った。
彼らの銃は、元か明の技術を応用したものであろうが、元込め式、薬莢を持つ銃弾、ボルトアクション、ライフルなど高度な技術がみられ、西洋の銃より五百年は進んでいたと考えられる。なぜ日本で急速に銃技術が発展したのかについては専門家の間で意見が分かれている。
また、火薬の原料の硝石については東南アジア方面との交易で入手したものとみられている。
片田衆は戦国時代を通じて繁栄したが、戦国末期に銃の技術を失った。失った原因は分かっていない。織豊政権の全国統一過程で、片田衆は吸収され消滅した。】
“触媒を失ったのかな”片田が思う。メタンを作るためのニッケル触媒、硝酸を作るための白金触媒について、片田は子供達にも教えていなかった。技術流出を防ぐためだったが、気の毒な事をした。
【片田衆は土木建設技術にも優れており、応神天皇陵付近の覚慶運河、奈良県桜井市の倉橋運河などは国宝に指定されている。大和川の亀の瀬運河は小規模であるが、覚慶運河などと同じコンクリート技術が使われているので、これも片田衆によるものだと考えられている。
また、淡路島の各所には、港や造船所、海岸砲台などの遺跡が多く残っている。】
覚慶運河、倉橋運河の写真が本に掲載されていた。どちらもローマ帝国の水道橋に匹敵する技術である、とされていた。
“まだ残っているのか”片田が思った。“『ふう』はいい仕事をしたな”
【片田衆は、眼鏡と大和友禅の発明にも関わっていると考えられており、これらと土木技術、銃技術との関連性について研究が進められている……】
片田は読むのを止めて、この本を借りることにした。実家に帰ってみると、家のあたりが騒がしい。門のところに観光バスが止まっていた。外から実家の中を多くの人が覗き込んでいる。
“何だろう”と思って近づいてみると、一人が片田に気付いた。
「あっ片田だ!」
その声で集団が一斉に片田の方を向く。皆ニコニコと笑い、手をあげて片田の方に向けて駆け寄ってくる。
これはかなわん。
そう思って片田が逃げる。
「片田さんが逃げた」
多くの観光客が片田を追い回した。
その夜、片田は失踪した。
本日は二本立て、です。




