PBYカタリナ飛行艇
初めに感じたのは、背中の痛みだった。なにかごろごろした物の上に横たわっているらしい。次に感じたのは濃密な温度と湿度だった。水音もする。
目を開けてみる。
ジャングルの河原にいた。
“ああ、狙撃兵に撃たれたところだな”ずいぶんと昔の事を思い出す。
立てるだろうか。左ひじを立て、上半身を起こしてみる。大丈夫だ。足を撃たれたはずだったが、痛みもない。
立ち上がってみる。どこも不都合はなかった。
「さて、どうしたもんか」
下流に向かって歩くしかなかった。しばらく歩くと、右の茂みに小道のようなものがあったので、そこを上ると車の轍がある砂利道に出た。やはり下流と思われる方にむかって、砂利道を進む。
二時間程も歩いただろうか、畑と人家が見えてくる。鍬を持った男が片田の方を見た。男は恐る恐る、来た道を戻って集落の方に向かった。
集落から複数の男たちが鍬やシャベルを持って出てくる。
「ヤパーナ?」「ジャパニーズ?」ドイツ語と英語が混ざったような言葉で問いかけてきた。
片田は両手を挙げて、抵抗しない事を示し。
「イェス」「ヤー、ヤー」片田もチャンポン語で返した。
「ポリツェスト」「ポリス」
やれ、警察官を呼んでくれるらしい。リンチには合わなくて済みそうだ。『とび』の村を初めて訪れた時を思い出す。
村人が、誰かの家に連れて行ってくれて、軒先のテーブルにバナナとコーヒーのようなものを出してくれた。
しばらくすると、軍用車両に乗った白人兵が3人やってきた。
片田が士官学校時代に習った英語で、氏名、生年月日、本籍、所属などを話す。
「リアリィ」「アメイジン」などと白人達が言う。彼らはオーストラリア兵だという。この時期、パプアニューギニアはオーストラリアの委任統治領だった。
「なにがアメイジングなのだ」片田が言った。
「だって、二十四年間も、ジャングルに潜伏していたのだろう」兵が言う。
片田が目を丸くした。
“いや、話を合わせて置こう。真実を説明すればやっかいになるばかりだ”片田は英語が得意じゃないふりをして、適当に話をした。
軍用車両に載せられて、ラエの町に連れていかれた。軍施設内の士官用個室のようなところに滞在することになる。
ニューギニアからオーストラリア本国へ、そこから日本の外務省、厚生省の社会・援護局に連絡が行った。
確かに、そのような所属名前の兵が旧日本軍におり、ラエ北方で転進中に戦死したと記録に残っていることが分かった。長野県の本籍の方でも実在が確認された。
「苦節二十四年、ニューギニアに旧日本軍将校生存者見つかる」翌日の新聞に、そんな見出しが躍った。
片田の身分が明らかになったため、オーストラリア政府は、彼を日本本国に移送することにした。
ラエには空港がない。そこでオーストラリア政府はポートモレスビーに配備されていたコンソリデーテッド社のPBYカタリナ飛行艇をラエに向かわせた。
出国手続きを終えた片田がカタリナに乗り込む。カタリナの特徴的な丸く膨らんだ後部銃座に導かれ、そこに座らされる。
カタリナが離水し、大きく湾を左旋回しながら上昇する。
高度が上昇するにつれ、片田の座る左銃座から、サラワケット山系が大きく見えてくる。
“あの高山を越えて、どれほどの戦友が北岸のキアリに到着できたのだろう”
カタリナはサラワケット山系を越えるのではなく、東側を迂回する針路を採った。十分な高度に達した後、自動操縦に移行したらしい。機長と思われる男が片田のところにやってきた。
彼はタバコを差し出し、吸うか、と尋ねる。
片田がタバコはやらない、と答えると、それだったら機首の方に来い、と誘う。
コックピットでタバコを吸っていた副操縦士を、下の機首銃座に下がらせ、片田を副操縦士席に座らせた。
「どうだ、面白いだろう」景色や、コックピットの機械を見せながら機長が言った。
乗合バスのステアリングをひしゃげたような、特徴的な操舵輪(操縦桿のこと)を持つ飛行機だった。
一つ一つの計器やスイッチを指さし、これはなんだ、と尋ねると丁寧に教えてくれる。
「この飛行機で、お前をフィリピンのマニラに送る。途中、パラオで燃料補給するがな。マニラでは、日本の旅客機が待っているはずだ。それで日本に帰れる」
「なんで、そんなに手厚くしてくれるんだ」
「そりゃあ、お前が勇者だからだ。ジャングルで二十四年間も持ち堪えたんだからな、決まっているだろう。俺だって片田、お前を自分の飛行機に載せることを誇りに思っている」
“ちょっと、違うのだが、まあいいか”片田が思った。




