玄室(げんしつ)
ウツロギ峠が開放され、北陸の東軍兵、兵糧、武器などが陸続と京都の東山につめかけた。それを知った大内軍、山名軍は、それぞれ摂津国と丹波国を放棄して西方に去った。
安宅丸の第三艦隊が若狭から堺に帰着する。船から降りた安宅丸は第三艦隊司令の職を辞したいと片田に申し出て、了承される。後任には五十鈴艦長の有馬忠利が充てられた。熊野水軍の出身者だった。
片田村に帰った安宅丸は、一時期、僧になるなどと言い出して石英丸や茸丸を慌てさせるが、それが収まると堺に帰ってきた。
やはり、船に乗りたい、という安宅丸に、片田は商船隊を与えた。
安宅丸の商船隊は琉球に、小琉球(台湾)に、占城にと新奇な商品を求めて販路を伸ばしていった。
占城では、一四七一年の黎朝大越との戦争で、現地の商店を失うが、その後マラッカ王国と交易を始める。
ジョホール付近での海賊掃討に貢献した安宅丸商船隊は、マレー半島南端のシンガプーラという島の租借権を得る。
シンガプーラには日本人街と港、造船所などが造られた。ポルトガルが侵攻してくるまで、あと四十年しか残されていない。
淡路島では鍛冶丸が活躍した。岩屋と福良に大きな港が開かれ、由良に造船所が建設された。
福良港の周辺には、製鉄所、化学工場、兵器工場などが犇めくように建てられ、港の入口には要塞が置かれた。
銃や砲の製造は、片田村から淡路島に移された。片田は火薬や銃砲を大名に売ろうとしなかった。兵器を求める大名からの要請については、
「日本人どうしで戦ってどうする、止めておけ」といって応えなかった。
義政の『花の御所』は焼け残った。義政は史実よりも早くに義視に将軍職を譲り、東山山荘(銀閣)の建築に専念した。
御所と内裏を囲う片田構は、賀茂川から水を引き、水堀となり、内部の南西の一角に天守閣が建てられた。
皇居も、片田の貢納により、見違えるほど整えられた。
細川勝元は兵庫と尼崎の港を修復した。勝元の船は大内が支配する関門海峡を通行できない。そこで土佐沖を通過する海路を開いて、朝鮮との貿易を行った。
大内も頻りに朝鮮貿易を行っているようだった。山名宗全が大内から学んで朝鮮と貿易を開始したが、硝石を無理やり買おうとして、出入禁止を食らったという。宗全らしい話だ。
畠山義就と政長は、相も変わらずに戦っていた。主戦場は初め、南山城、巨椋池の南あたりだったが、あまり戦ばかりするので、当地の国人、百姓が怒って山城国一揆をおこし、両軍を追い出した。
しかたなく、両軍は大和に移動して戦闘を継続した。
筒井城を手に入れて、大和盆地中央に進出したと喜んでいた越智家栄は、筒井城が最前線になってしまった。
十市遠清は大和で中立を保ったままでいた。遠清に手を出すと、片田が黙っていないだろう。そう思って義就も政長も十市郷には手をださなかった。
早くに下国した朝倉孝景は斯波義敏を越前国から追い出し、いつのまにか越前の守護になっていた。
東国だけでなく、西日本でも戦国時代が始まっていた。
応仁七年(一四七三年)になった。『応仁の乱』が一年で終了していたので、文明への改元はなされなかった。
和泉共和国(旧和泉国と淡路国を併せた国)の国務も落ち着いてきた。片田がひさしぶりに片田村に来ていた。
『ふう』と『かぞえ』が設計し、土木丸が建設した片田村運河の開通式に出席する。
修復した倉橋溜池から、片田村の西側の山を等高線に沿って延ばした水道だった。村の幅が狭い赤尾のところには水道橋が懸けられ、片田村の東側にも水路が渡されていた。
この運河で、片田村東西の高地にある工場に水が供給できるようになった。
これで、高地にも水を使う製紙工場、絹糸工場などが建設できる。
式の翌日、片田が『ふう』に声をかける。
「『ふう』、ちょっといいか」
「なに」
「二人が初めて会った時を覚えているか」
「覚えている。粟原の岩室から『じょん』が出てきた。犬丸も驚いていた」
「その岩室に連れて行ってもらえないか。何度が探してみたんだが、どうも見つからない」
「いいぞ」
そう言って、二人が練兵場を過ぎ、放牧場を登っていった。
粟原川に沿って、放牧場を半分程登ったところの左手に、山に入る小道があった。
「ここだ、この上で『じょん』と会った」
『ふう』が言うには、犬丸と二人で春の山菜採りに行った帰り道に片田に会ったのだという。
片田村を建設するときに、このあたりの木を切って木材にした。跡地を放牧場にしていたので、すっかり景色が変わっていた。それでわからなかったのだろう。
山に入って、しばらく登ると、やがて左側にそれがあった。
恐らく、古代古墳の石室なのだろう。おおきな石が組み上げられている入口がある。その奥は光が射さず、暗かった。
“私は、ここから出て来たのか”片田が思った。
村で作ったマッチを擦って中に入ってみる。『ふう』は気味悪がって入ろうとしなかった。
“かなり大きいものだな”十メートル程羨道を歩いていくと、大きな玄室が広がっていた、長さ六メートル、幅四メートル程だろうか。高さも幅と同じくらいあった。
片田が玄室の中央に立つと、片田のまわりに金色の輝く砂金のようなものが漂いはじめる。マッチの火が消えても、それ自体が光っていた。
“これは、以前に見たことがある、まずいぞ、今還る訳にはいかない”
そういって、振り返り、羨道に戻ろうとしたとき、光の粉が渦を巻き、意識を失った。
外で待っている『ふう』が不安になってくる。いつまでたっても『じょん』が返ってこない。
「『じょん』?」
「じょん、じょん」
“中で倒れてしまっているんじゃないだろうか“
「じょーん!」大声で叫んでみる。なんの気配もない。『ふう』が四つん這いになって、羨道の中に入っていく。“深いな”、そう思った時に、手に枯れ葉のようなものが触れる。
片田のマッチ箱だった。
あわてて、マッチを擦り、火をつける。
玄室の、大きな花崗岩の壁が見えるばかりだった。




