片田順、朝臣(ちょうしん)になる
年が一つ過ぎて、応仁二年(一四六八年)になった。
一条兼良が息子の尋尊を訪い、大和の大乗院に逗留していた。この時期、兼良の邸は焼け果ててしまっていたが、まだ京都に拠点を持っていたので、短期の訪問である。
一方、彼の長男、一条家当主の一条教房は、既に昨年の八月に尋尊を頼って、大和大乗院に避難していた。
大乗院の一室。
兼良と、教房、尋尊の三名が集まっていた。
兼良は六十七歳、教房が四十六歳、尋尊が三十九歳である。
「内裏での新年はどのようでした」教房が尋ねる。
「晦日の追儺も、元旦の四方拝も、ほぼ御門御一人で、真似事のようになされた。おいたわしいことだ」兼良が嘆く。
追儺とは疫病の鬼を払う儀式であり、大晦日の夜に行われる。追儺が終わると、天皇は理髪、湯沐を行い、就寝しないまま、寅の刻(午前四時頃)に清涼殿の東庭に出て、天地四方を拝して新しい年に災厄がおこらぬよう、厄を攘う。
「京都はもう、以前のようではないのですね」京都の災厄を見ていない尋尊が言った。
「わしが最後に見た時には、上京の公家邸、寺社、土倉酒屋なども、多くが焼け落ちていた」教房が言った。
「そのあとに、相国寺も燃え果てた」兼良が言葉を続ける。
「相国寺、といえば、堺は無事のようであるな」兼良がさらに続けて言う。
彼が、相国寺といえば、と言ったのは、堺南庄の領主が相国寺であるからだ。
「片田商店に和泉一国が獲られた、ということですが、堺の港はいつも通り栄えているようです。むしろ兵庫、尼崎から逃れて堺に船が集まっているとのことです」尋尊が言う。
「堺が持ち堪えてくれるのは、ありがたいことじゃ。堺がそのままであれば、幡多庄からの年貢も無事届くであろう」兼良が言った。
幡多庄とは現在の高知県四万十川河口付近にあった一条家の荘園のことである。
「そちの準備はどうなっておる」兼良が教房に尋ねる。
「はい、仮の邸を中村に建てさせております。今年の秋には家人の中から同行を望む者を募り、幡多庄に下向するつもりです」
中村とは、幡多庄にある村である。一条教房は、京都に見切りをつけていた。復興までには何十年もかかるであろう、それならば領地の幡多庄に下向して、向こうに小京都をつくろうではないか、と思っていた。
土佐一条氏の始まりである。
「尋尊、お前の方はどうじゃ」
「大乗院の荘園は全国に広がっております。西国は堺から年貢が入ってくるでしょうが、東国・北陸は無理でしょうね。そして、それよりも、座の商品が乱の開始以来、まったくといっていいほど入って来ません。畠山や大内が座を毛嫌いしているようです」
「それでは、大乗院も大変じゃな」兼良が言う。
「はい。思うに、座という仕組みで寺社が栄える時代は終わったのではないでしょうか」尋尊が言う。彼は冷静な分析家という側面があったようだ。
「座が終わったかどうか、わからぬが、いずれにしても戦が終わらぬことには、どうにもならんな」兼良が答える。
「そういえば、片田商店のことで、室町殿はなにか言っていましたか」尋尊が尋ねる。
「いや、片田が室町幕府の配下にならぬ、というところで止まっている」
「大樹は何をお考えなのでしょう」尋尊がさらに尋ねる。
大樹とは将軍の唐名の一つで、『太平記』や『後漢書』に現れる表現だ。
「うむ、戦を終わらせることに腐心しておられる。しかし、内裏と将軍が東西いずれかに守られているのでは、戦が止まぬ。それで片田に、京都に出てこないかと言っている」
「それは、足利将軍家の臣下として出てこい、ということですよね」
「そうじゃ。将軍直属として、東軍でも西軍でもない立場で幕府と内裏を守護せよと言っている」
「でも、片田は西軍に参加しています。それでは、彼ならば出て来れないでしょう」
「片田を知っておるのか」
「はい、一度だけ会ったことがあります。大乗院に眼鏡を売りに来た時に。真面目そうな男で、道理が分かっている風でした」
「西忍に相談してみましょうか」尋尊が言う。
「西忍とは、天竺商人の西忍のことか」兼良が言う
「はい、二度目の入明の折以来、片田と親しくしています」
楠葉西忍が招かれて入ってくる。尋尊がここまでの話をかいつまんで西忍に語った。
「そうですね、元次も、片田は幕臣になる気がない、と言っていました」西忍が同意する。
「和泉、淡路をわずかの間に下し、片田の武勇は天下に轟いておる。その片田が自らの軍を率いて入京すれば、東軍も西軍も黙って引き下がるのではないか」教房が言った。
「さて、わたしは商売の方で付き合ってきましたので、武士の技の方はよくわかりませんが」そういって、西忍が考え込む。
「おお、そうです」西忍が言う。
「いつであったか、忘れてしまいましたが、片田は御門(天皇のこと)に対しては大いなる敬意を持っているはずです。そのようなことを言っていました」
「御門を尊敬しているというのか。いまどき、その様な者が市井におるのか」兼良が驚く。
「はい、確かです」西忍が念を押す。
「南朝方ではないのか」教房が疑わしそうに言った。
「さて、それはわかりませぬが、北畠と戦っているところを見ると、南朝方とは思えませんが」西忍が言う。
「それも、そうであるな」尋尊さんが納得する。
「よし、分かった。片田を左兵衛佐に任ずるように、上様に進言する。西忍よ、それで片田が動くかどうか、本人に打診してみてくれ」
左兵衛佐とは古代朝廷の官名であり、出世の登竜門でもある。位は従五位下か上あたりである。平清盛が初任官したのが、この役職であったことに倣ったのであろう。
楠葉元次の訪問に、片田は驚愕した。
『応仁の乱』については、片田としては自身の目的、すなわち和泉、淡路二国の獲得は達成している。もう、いつ戦が終わってもいい。
後は、なりゆきで西軍が勝てばいいだろう、くらいに思っていた。片田の閉塞作戦のおかげで史実とは異なり、短期間で西軍の勝利になることがほぼ確実であった。日本全体が戦乱で傷むことも、それほどあるまい、そうとも思っていた。
したがって、これからは和泉、淡路の国固めに専念するつもりでいた。
そこに、これが来た。
片田にしてみれば、彼にとっての今上陛下の、その何代前か知らぬが、ともかくご先祖様だ。その陛下の御先祖様が、【片田よ、京に参りて、我を助けよ】と言っているという。
この打診を断ることが、片田には出来なかった。
四方拝の場所について、Wikiでは神嘉殿の南庭となっています。
現在では、皇居、宮中三殿の神嘉殿の南庭で行われているそうです。
しかし
『有職故実(上)』石村貞吉著、講談社学術文庫には、
「四方拝は、正月元旦に天皇が清涼殿の東庭において属星の名を唱え~」
とありましたので、そちらを採用しました。




