遊佐長直(ゆさ ながなお)
畠山政長は、山名宗全影響下の幕府で、この年の一月に管領職を罷免されていた。そして、それを不服として同月御霊神社に立てこもり、畠山義就との間で御霊合戦を戦った。
御霊合戦で義就に敗れて、一時行方不明になるが、五月の上京の戦いで細川勝元が幕府を手中にし、六月に幕府から御霊合戦の件を赦免されて復帰する。
復帰はしたものの、勢いを回復したわけではなかったため、十月の相国寺の戦いでは、これといった出番が無かった。一度西軍に奪われた相国寺の奪還作戦に参加して失敗した程度である。
相国寺の戦いの結果、東西共に大きな人的損害を被った。特に西軍の大内政弘と畠山義就の軍の損害が大きかった。
東西、双方とも、年内に大規模な戦闘を行う余力はなさそうである。
そこで、政長は家臣の遊佐長直を河内に派遣して、この年の年貢収納と兵の補充を行うことにした。
長直は、西軍包囲の目を盗み、東山から山科、宇治と迂回する。大内兵が支配する淀川北岸を避けて八幡から交野と南下して飯盛山城に入る。
畠山義就は京都から動くことが出来なかった。
畠山政長は室町幕府に認められた河内国の守護である。遊佐長直が河内に入れば、河内の国人、民衆の多くは、これに従わざるを得ない。
京都から南下してくるかもしれない畠山義就軍への押さえとして飯盛山城に兵を置き、長直自身は、さらに南下して若江城に入った。
「遊佐長直が若江城に入ったというのか」片田が言う。
「河内に放った忍びがそのように報告してきました」小山朝基さんが言った。
「国境沿いに動きはあるのか」
「いまのところ、政長軍の動きはないようです」小山七郎さんが言う。
この時点での和泉共和国と河内国の国境は、旧和泉国と河内国の国境とほぼ同一であった。堺の北半分から淀川まで、海沿いに細川勝元の摂津国の領域が広がっているが、この地域の細川の勢力は片田軍に一掃されており、現在は堺の周辺以外は河内国の勢力範囲となっている。
覚慶運河の大部分も河内国内である。
「畠山右衛門佐様(義就)は守将を置いていなかったのか」
「置いてはおるでしょうが、政長は赦免され現在の河内守護である、とする六月の将軍御内書を遊佐が持参しているとのことです。守将は将軍の御内書には逆らえないでしょう」朝基さんが言った。
「まあ、右衛門佐(義就)様を強く支持する国人達は京都に同行しておるじゃろうからな」七郎さんもやむを得ない、という顔をする。
脇が甘すぎるのではないか、そう言いかけた片田が黙った。片田村を襲われたのは、つい先日の事だった。
「とりあえず、河内国内の、覚慶運河の両側一里(約四キロメートル)ずつと、淀川以南の旧摂津国への片田軍の進出を許可するよう、右衛門佐(義就)様に書状を送りましょう」七郎さんが進言する。
遊佐長直が河内国に入ったことで、河内国内での義就派と政長派の争いが激しくなった。
徴兵も、年貢の徴収も、当初長直が思っていた程うまくいかない。
河内国に、大量の『洛陽新報:河内版』と称する新報が出回り始めた。
【東軍危機。残すは室町御所から武蔵守(細川勝元)邸までの一角のみ】
【越前の東軍、いまだ上洛できず。ウツロギ峠の攻防】
【検証・相国寺の戦い、東西両軍の損失一万以上か】
【前管領、畠山政長軍、顔が見えず】
など、全国に出回っている『洛陽新報』より東軍に不利な記事が目立つ。それを手にした遊佐長直は悔しがる。
「このけしからぬ河内版新報とは、どのような者が販売しておるのか、販売者を捕らえてまいれ」長直が命令する。
「おい、お前『洛陽新報』を売っておるな、ちょっと尋ねたいことがある」長直の郎党が売り子に尋ねる。
売り子は片足が無く、松葉杖に寄りかかりながら新報を立売していた。
「へい、なんでしょ」
「その新報、どのようにして手に入れた」
「へい、それが不思議なんで」
「どういうことだ」
「あっしのような廃兵を見ると、新報を押し付けてくるやつがおるんです」
廃兵とは、戦争で手足を失うなどして、満足に働けなくなったものを言う。
「押し付けるとはどういうことだ」
「戦で不自由になったのであろう、これを一枚二文で売り、暮らしの助けにせよ、そういってタダでくれるんでさぁ」
「どこで配っているのか」
「それが、その日によって違うんです。俺も毎日ありつけるわけじゃない」
「容姿とか、わかることを教えてくれぬか」
「それが、こっちも生きて行かなきゃあならねぇ。教えられねぇな」
「しょっぴく、と言ったらどうする」
「やれるもんなら、やってみやがれ。お前ら侍のせいでこんな体になったんだ」
廃兵の大声に、人が集まってくる。
長直の郎党も、さすがに怯むしかなかった。




