淡路島
筒井城は越智家栄が支配することになった。
小山朝基さんが率いる片田軍と犬丸の騎兵百騎は、筒井城を下した足で、亀の瀬運河に向かう。
犬丸達が運河入口で馬から降り、徒歩で運河の馬道を進んだ。
半ばまで行ったところで、左右から矢が数本飛んでくる。
「戻れ、まだ筒井の兵が潜んでいる」
「あれをやってみましょうか」犬丸が朝基さんに言う。
「そうだな。山狩りする前に試してみる価値はあるだろう」
朝基さんの命令で、荷車に積んで来た二百旒余りの筒井の旗指物を大和川に次々と投げ入れた。
筒井兵が城を放棄するときに残していったものだ。
旗指物は水に浮かび、次々と亀の瀬の急流を流れ落ちていった。
「もう一度、行ってきましょうか」犬丸が言う。
「いや、今度は私の方の兵を出してみよう」朝基さんが、そういって十名程の斥候を選び、馬道を進ませる。
斥候達が無事、運河の向こう側にたどり着く。
「筒井兵は去ったようですね」犬丸が言う。
「そのようであるな。念のため、左右の山に斥候を出しながら前進することにしよう」
筒井兵からの抵抗は無かった。朝基さんが百名を亀の瀬に残した。
犬丸と朝基さんの兵が河内平野に出る。犬丸が伝令を堺と片田村に向かわせた。亀の瀬運河が開放されたことを知らせるためだ。
翌日には堺から片田村へ、油や石炭、硫黄などの原材料が送られた。片田村からは伊勢の北畠からもたらされた油を使った焼夷弾、小銃弾、迫撃砲弾などが続々と送られる。
二月程で、淡路国侵攻のための物量が堺に集積された。
十二月、片田軍は淡路国洲本の浜に一万名の兵力で上陸し、そのまま洲本平野を西進し、広田のあたりで三原平野側に出る。ここは三原平野の奥座敷にあたるところで、片田軍の正面に、淡路国守護所の養宜館がある。守護の細川成春は応仁の乱で上京していた。
養宜館は一見すると無防備な平城であったが、周囲を前山城、柿ノ木谷城、上田城などの山砦に固められており、三好氏、広田氏、菅氏、船越氏などの国人の抵抗は激しく、片田軍はこれを攻略するのに苦労した。
しかし、戦況の推移については、これまでと重複する部分が多いので詳述しない。
養宜館を落とした後、残った菅氏の志知城の攻略に、さらに数日を要した。
なお、淡路国の水軍の頭である安宅氏は、片田軍に抵抗しなかった。
安宅氏は片田水軍との戦力差が明らかであることを知っていた。片田水軍の明石海峡、紀淡海峡封鎖行動に対して、手も足も出なかったからである。安宅氏は開戦前の投降勧告に応じていた。
戦闘の推移を書かない代わりに、この安宅氏について書いてみたい。
片田達の時代、淡路には城らしい城がなかったようだ。由良古城、洲本城などの城を建設するのは、この安宅氏である。
平安時代、淡路島周辺の海域で有力だったのは、沼島水軍であった。沼島というのは淡路島の南に浮かぶ面積三平方キロメートルに満たない小島である。
『土佐日記』一月三十日の所に、
【海賊は夜ありきせざなりと聞きて、夜中ばかりに船を出して阿波の水門を渡る。~、『ぬ島』といふ所を過ぎて『たな川』といふ所を渡る】
とある『ぬ島』が沼島のことである。『たな川』は現在の大阪府泉南郡岬町多奈川のことである。
南北朝時代、沼島水軍は南軍方についたようである。そのためであろうか、室町二代将軍足利義詮が紀伊日置川河口を拠点とする安宅水軍に沼島水軍討伐を命ずる。このことにより安宅氏は淡路国に拠点を持つことになる。
安宅氏は淡路島で勢力を拡大し、由良、洲本、千草、炬口、安乎、岩屋、三野畑、湊などに拠点を拡げ、安宅八家衆と呼ばれる。
片田達の時代には、安宅氏は細川氏に仕えていたが、細川氏が没落すると三好氏に仕える。この間に拠点の各所に城を築くようになった。
中でも由良古城は、安宅氏居城であり、成ヶ島に囲まれた良港、由良港の淡路島側出口に建てられている。
商品経済の発展に伴って、海運で富を築いたことによるものだと思われる。
後に安宅氏は織田、豊臣の時代に没落する。
一説には毛利方に付いたともいわれる。




