洛陽新報(らくよう しんぽう)
『相国寺の戦い』の頃より、京都下京において、『洛陽新報』という一枚物の新聞が発行されるようになった。
応仁元年(一四六七年)十月三日の見出しと前文は以下のようであった。
【畠山右衛門佐(義就)軍、一条大路を突破、花の御所に迫る】
去る九月十三日に三宝院・内裏を南より攻略した畠山右衛門佐軍が十月二日、ついに一条大路の東軍御構を突破し、烏丸、東洞院、高倉あたりで相国寺南面に迫る。これにより東軍の東の拠点、花の御所、相国寺、今出川邸は総て西軍と接することになった。
として、以下本文が続き、左下には畠山義就と思われる勇壮な武将が一条大路に築かれた土塀を騎馬で突破する様子が描かれた絵が付いていた。
末尾には「主筆 佐武次」とのみ書かれていた。
これを二文(現代の価格で約百五十円程度)で立売している。立売商人の男は背中に籠を背負い、その中にたくさんの新聞の束を納めていて、小分けにしたものを左手に持ち、囃子声をあげながら売り歩いている。
珍しい物好きな京の町衆は、新報を争うように買い求めた。
「畠山様が、ついに一条を突破したか」
「これで、東軍の負けは、まず決まりだな」
「東軍が囲まれたら、商売あがったりだ」これは東軍の兵に塩ムスビなどの食料を売る店の者の言であろう。
「戦、早く終わるといいわね」
等々、京の民は新報を片手に、様々なことを話し合っていた。
十月四日には、このような新報が出された。
【大内周防之介(政弘)軍、北部より相国寺に突入。相国寺御構の堀に周防兵の死者累々】
十月三日、船岡山より相国寺北面に移動していた大内軍が、畠山義就軍の相国寺到着に呼応して、相国寺御構に突入し、相国寺境内で戦闘が起きた。大内軍突入は強引なものであり、相国寺を囲む堀は、周防兵の屍で埋まったとのこと。識者が語るには、大内軍は京都での初戦であるため、御構など、この度の戦で初めて出現した防衛装置に慣れておらず、不必要に損害を拡大したものと思われる。
左下には、堀を埋める周防兵の無残な姿が描かれている。
十月五日は、こうであった。
【相国寺炎上!跡地に西軍進駐。七重大塔は残る】
畠山、大内、一色、朝倉などの西軍により十月三日より開始された相国寺の戦いに対し、東軍は細川|勝之、武田信賢などが守ったが、大内氏の無理攻めに会い、退却した。その後東軍が畠山左衛門督(政長)の援軍により一時取り返すものの、西軍、朝倉孝景の再参戦で西軍が相国寺を確保したものと思われる。
現地特派員報告によると、相国寺七堂伽藍は総て焼亡したものの、東に少し離れた同寺の七重大塔(高さ三百六十尺(約百九メートル)、日ノ本一の高塔)は無事だった模様。
この日の新報には七重大塔の上から見た相国寺焼け跡の絵が添えられており、本堂、総門、玉龍院、天界橋など焼け落ちた堂宇の名称が入れられていた。
『洛陽新報』の登場により、都市部の文字が読める町衆や、京都の周囲の僧侶神職などにも、戦乱の様子が手に取るようにわかるようになった。
京都だけではない。大和、堺、尼崎、兵庫などにも数日の時差で伝わる。
さらに、そこから船で西国諸国にも運ばれていった。
西国に運ばれた『洛陽新報』は、地方で複製されて、さらに出回ることになる。
謄写版の鑢板の上に、京都で摺られた新報を置き、さらに蝋紙を重ね、上から文字や絵をなぞるだけで、容易に複製をつくることができた。
この時代、戦があっても、その詳細な状況は一般にはあまり知られていなかった。そこに『洛陽新報』があらわれ、どのように戦いが行われ、被害や戦死者がどれ程なのか、知れ渡るようになった。
『洛陽新報』によって知られた大内軍の人的損害は、大内政弘支配下の国に動揺を与えた。
筑前では少弐教頼、宗盛定らが史実よりも早く動き始め、大宰府を狙う。
大内政弘の伯父である大内教幸(当時出家しており、道頓と名乗っている)が細川勝元としきりに連絡をとりあっている、という連絡が周防留守居役の陶弘護から政弘に向けて上がってくる。
出兵した兵士家族の不安は言うまでもない。
「小猿が、これほど絵が上手いとは、知らなかったな」藤林友保が九条の『洛陽新報』発行所で小猿の描いた絵を見て唸った。
その絵は、南禅寺三門が炎上するところが描かれている。次号は、先日の東岩倉の戦いを特集する予定だった。今回の小猿の絵は門が炎上しながら崩れ落ちる瞬間を描いていて、鬼気迫るものがあった。
原稿は主筆である友保が書く。山田八郎右衛門が鉄筆を握り、力に自信のある大猿と高山太郎四郎がローラーを回す。
記事中で現地特派員と言っているのは、新藤小太郎、楯岡同順のことである。彼らは忍びの身軽さで、どのような所にでも侵入し、取材をした。




