相国寺の戦い
細川勝元の火薬は十日程で尽きた。態勢を立て直した西軍が、九月十三日に再度法身院を攻める。法身院とは三宝院門跡である三宝院義賢の住居の事である。そのため、『応仁記』では三宝院と称しているが、山科の醍醐寺三宝院のことではない。
以前、法身院の場所が特定出来ない、と書いたが場所を知ることが出来た。
呉座勇一博士著『応仁の乱』中公新書の八十三ページの地図に法身院の場所が書かれていた。
同書によると、法身院の場所は土御門大路(現在の上長者通)と万里小路(柳馬場通)の交差点の南西角である。
現在二つの道は交差していないが、延長して交差する点は、京都御苑内の京都御所と京都迎賓館の間あたりである。
また、当時の内裏は南北を正親町小路(現在の中立売通)と土御門大路に、東西を高倉小路(高倉通)と東洞院大路(東洞院通)に囲まれたところである。ほぼ現在の紫宸殿のあるあたりだ。
従って、内裏の南東角から東に百二十メートル程行ったところに法身院があったことになる。
畠山義就を中心とした軍が法身院に攻めかかる。法身院を守る武田元綱は、わざと門の片方の扉だけを開け、西軍兵を境内に引き入れて、これを囲んで攻めるという戦い方をした。
元綱軍が西軍を押し戻すこと数度。敵兵を多く倒したが、当初二千いた元綱の兵がしだいに減り、元綱は法身院を放棄して内裏に撤退しなければならなくなった。
義就の西軍は続けて内裏を攻める。元綱軍は内裏で立て直すことが出来ず、これも放棄し、一条大路以北の東軍が守る陣に撤退していった。
畠山義就は主のいない内裏を占領し、一条大路の線まで北上する。
当時、一条大路の幅は十丈(約三十メートル)あったとされている。東軍は、その幅広い一条大路に幅二丈(約六メートル)、深さ一丈(約三メートル)の堀を掘り、堀の北側に土塀を築いていた。この『御構』により義就軍の北上が止まった。
義就軍は一条大路の向こう側にある屋敷にしきりに火矢を放った。一条大路に面した関白一条兼良の邸がこの火矢攻めにより焼けてしまう。汗牛充棟を極めた彼の桃花坊文庫もこの時に焼失する。
兼良の邸は現在の一条通が京都御苑に突き当たるあたりの御苑内にあった。
足利義政の所には寺社からの書状が殺到していた。
曰く、王城守護のための幕府が洛城を焼滅するのはけしからん。
曰く、この夏は地方で作った座の品が京都に届かなかった、冬の年貢もこころもとない。
曰く、当山の末寺を焼くな。
等々である。
興福寺の大乗院と一乗院、祇園社、春日社、石清水八幡などは座の商品の流通が止まったことに対して苦情を言ってきた。
比叡山の延暦寺は帯座一つしか持っていないので、主に年貢と末寺の焼失について言ってきている。
いずれも、このまま続くのであれば僧兵や神人を洛中に繰り出すぞ、という権幕であった。紙の隅に墨が飛び散っている書状もあった。
「わしが焼いておるのではない。むしろ停戦させようと努力しているのだが」義政は思う。この八日にも畠山義就と政長に御内書を送っている。
義就と政長に戦を止めるように言ったところで、大内まで京都に繰り出してきている今では、そのようなことで収まりがつくことはなかった。
九月十八日には南禅寺まで炎上してしまう。南禅寺は禅宗寺院の中で別格扱いされる格式の高い寺である。
義政が自らの目で確かめる術は無かったが、南禅寺まで焼けてしまったという知らせには胸が痛んだ。
南では畠山義就の軍が一条大路の『御構』を攻めあぐねている。西では堀川、小川などに作られた無数の堀を挟んで山名宗全と細川勝元が対している。
十月二日、北野の船岡山を発った大内政弘、一色義直、朝倉孝景を中心とした軍が、北側より相国寺に襲い掛かった。
一月の『御霊合戦』の時、畠山義就が見せた機動に似た軌跡を描いた大内軍は、『御構』を物ともせずに相国寺に突入した。そして四日までの間に五山第二位を誇る七堂伽藍全てが焼け落ちてしまう。
相国寺は足利義満が、幕府のある室町第の東隣に十年かけて建立した大伽藍である。その後二回の火災にあい、四年前に義政が復興を終えたばかりであった。その相国寺が三度目の火災にあい、全山が焼け落ちてしまう。
この相国寺の戦いは、政弘が『御構』に対して強引な攻撃を行ったため、東西共に『応仁の乱』最大の死傷者を出す戦いとなったが、結果、西軍が相国寺を押さえた。
相国寺の黒煙は室町御所に居た足利義政にもよく見えた。
東軍の支配地は、西の細川勝元邸から東の室町第、今出川邸、一条大路北側を守る線のみとなってしまった。




