足利義視の出奔
「なにっ、伊勢の北畠が片田村に敗れた、だと」その場にいた足利義政、義視、細川勝元が一様に驚きの声をあげた。
「はい、半数程の兵を失い、ご本人は片田村の捕虜となったとのことです」使者が答える。
「敗北というよりは、壊滅と言ったほうがいいようだ。どのような戦いであったのか」義政が尋ねる。
「くわしいことは伝わっておりませぬが、なんでも晴天であるにもかかわらず、突如、雷鳴が轟き、山上から龍神が駆け下り、北畠兵を呑み込んで行った、とのことです」
「片田村は龍神をも使うのか」細川勝元が言った。火薬と砲を手に入れ損なった。
「北畠が捕虜になった、というのは本当か」義視が念を押す。顔が青ざめていた。
「確かです。北畠軍からは藤方基成が報告をよこしてきました」
「うむ。今北畠の五千を失うのは痛いな」義政が言う。
「はい、こちら側で唯一上洛できる軍でした」勝元も残念そうであった。
五月の『上京の戦い』で優勢を取り戻した東軍であったが、その後は、はかばかしくなかった。
西軍は国元の山名の軍勢を次々と出してきており、細川勝元が守護を務める丹後国を突破して入京していた。
それに対して東軍細川の軍勢は、西では四国の兵が片田艦隊の封鎖に会い、播磨国に上陸するものの、大内が摂津国に残してきた軍勢と対峙している。
東の方では、北陸道のウツロギ峠を片田の軍勢に抑えられ、北陸の畠山政長、京極政高、富樫政親、斯波義敏などの軍が上洛出来ないでいた。
そこに本日、八月二十三日には大内が淀川を上って、東寺に入ったという知らせも入って来ていた。
すでに、将軍義政の近習にも西軍に与する者が出てきたとして、昨日も将軍御所から内通者を追放、これを糺河原で切り捨てたという。
“この戦は、負けだ”
足利義視はそう思っていた。自らの身が危険にさらされる前に避難しなければならない。
少し前より、義視は難を避けるために、伊勢国に下向しようとしていた。北畠教具にも打診してあった。
いよいよ伊勢に逃げようかというときに北畠教具が片田村の捕虜になり、逃げ場を失った。義視が青ざめた顔をしていたのは、そのためであった。
「大内が東寺に入ったということであれば、治部大輔の邸の包囲を解かなければなりませぬな」細川勝元が言った。
治部大輔と言われたのは斯波義廉のことだ。斯波義廉は義政により管領職を与えられていたが、職を奪われることを恐れた余り、山名宗全、畠山義就に接近した。そのため、この七月には幕府の出仕も停止させられ、西軍の側で参戦することになった。
義廉の邸は室町通りと勘解由小路が交わるところにあり、『あや』の鏡屋の少し北にあった。
この時期東軍は、これを包囲していたが、京の南、九条にある東寺に大内軍が入ったとなると、包囲軍が背後から襲われる可能性がある。
「後ろから襲われてはかなわぬから、御所周りの警護に回そうではないか」義政が言う。
義政の言う御所とは、花の御所、すなわち室町第のことであり、天皇の御所のことではない。
数で劣勢となった東軍は室町第の守備に集中することにした。
「内裏、仙洞も室町殿に行幸、御幸していただかなくては、なりませぬ」勝元が言った。
内裏とは後土御門天皇、仙洞は、その父、後花園法王のことを言う。
西軍優勢のなか、両者を手中にして、正当性を保つことが狙いだった。
三種の神器を先頭にして、内裏から室町第への行幸が行われた。天皇と上皇は玉輦に乗って室町第の総門をくぐり、室町第の寝殿を仮の御所となされた。
供奉の公卿や殿上人、女官などが続いた。
“事は、ここに至れり。万事は窮した”行幸を見る義視は感じた。
その夜。足利義視は一色氏の手引きで、彼の今出川邸から密かに抜け出す。
伊勢の北畠が頼れぬ今、彼が頼ることができるのは比叡山だけであった。比叡山は、彼が門跡を務めていた天台宗浄土寺の総本山であり、多くの僧兵を抱えていた。また今回の争乱では、いまのところ中立を保っている。比叡山の延暦寺であれば、今の彼を匿ってくれるであろう。
史実では、応仁元年(一四六七年)八月二十三日のこの夜、義視は伊勢に向かっている。北畠教具が健在だからだ。義視は伊勢で一年を過ごし、翌年義政の求めに応じて一旦上洛する。
しかし、義政が日野勝光、伊勢貞親など義尚を将軍に擁立しようとする勢力を重用するようになると、再度室町第を脱走し、このときには比叡山に出奔している。




