復興の始まり
北畠兵達の遺体が川から引き上げられ、着ていた服を脱がし、代わりに経帷子を着せられ、荼毘に付された。急なことなので経帷子は白装束というわけにはいかず、村人の古着が代用された。
服を着せ替えるのは、衿の内側に出身地と名前が縫い取られているからだ。
焼かれた骨は壺に入れられた。そのときに、生前に来ていた服と六枚の銭も同じ壺のなかに納めた。
慈観寺の好胤さんが北畠教具と共に法事を行った。
北畠教具が伊勢国に帰る日が来た。
「我が兵を手厚く供養してくれたこと、感謝する」教具が言った。
「多くの兵を失い、帰国後が大変でしょうが、ご自愛ください。伊勢にも片田商店がありますので、復興のお手伝いをさせていただきます」石英丸が言った。
「かたじけない。頼むこともあるであろう」
北畠教具が、多くの遺骨とともに伊勢に帰っていった。
片田順は和泉共和国の立ち上げで、村に帰ってくる余裕がなかった。
『じょん』からは、戦後処理を通じて、可能な限り伊勢国を味方にするよう指示されていた。
片田村住民の多くが、洪水で住居を失った。彼らは高台の工場で仮に寝泊まりしている。食料は忍阪山城に蓄えた備蓄の乾燥食料だった。
「これ食べると、飢饉の時を思い出すな。二度と食わんでも済むと思っていたが」
「確かにな。無いよりはましだが」
乾燥食料を入れた壺は、骨壺に回されたが、一部の壺は食料配給所の裏に戻されていた。壺の口の所に切れ目がついている壺が戻されている。もちろん村人たちは気づかない。
戻された壺は、夜に石英丸達によって割られ、中から砂金を回収した。復興資金に使う。
この頃、『あや』は南都(奈良)に居た。村上信子、狩野雅子、土佐茂子も一緒だった。彼女らは家族と共に南都に避難していた。多くの公家や僧侶、職人なども、京都を焼け出されて南都に居た。
『あや』は南都に店を開き、疎開してきた公家などを相手に友禅染の衣装で荒稼ぎしている。その店の一角に片田村の営業所を置いた。
営業所を拠点にして、砂金を銭や片田銀に替え、布や木材、米など必要な資材を買い付け、片田村に送った。
最優先で修理しなければならなかったのは鋼索鉄道だった。これが無いと高台の工場まで物が運べない。
村の中央付近の鋼索鉄道を復旧対象として、川の東西二つを選んだ。それ以外の線路を外し、洪水で流された部分に当てる。
石英丸は、ガラス工場と、硫安工場の再開を当面見送ることにした。二つの工場にある蒸気機関を分解して、鋼索鉄道の動力とすることにする。
鋼索鉄道の車両の多くが無くなっていた。洪水の時、川沿いにあった車両がまず押し流され、鋼索がちぎれた。鋼索がちぎれることにより、山側にあった車両も線路上を自由落下して、これも流されていった。
幾つかの路線で、避難時に気を利かせて制動器を作動させているものがあった。
この路線では上の車両が残っていたので、それを集めることにした。
二つの蒸気機関が川沿いに移設され、鋼索鉄道が復旧した。
製鉄所、アンモニア工場、硝酸工場などが操業を再開しはじめる。
火薬、雷管、銃弾、迫撃砲弾の工場も、近いうち再開できるだろう。
茸丸のキノコ農園は被害が酷かった。干しシイタケは軽い商品だったので、村の一番上流部の高い位置に農園があったからだ。そのあたりは村の幅が狭く、洪水の威力も強かった。
シイタケの生産自体は、最近では片田村よりも、近畿一円の契約農家の方が生産量は多かったので、それほどの痛手ではなかった。しかし茸丸の研究室にあった種菌が流されたのが痛かった。
高温に強いもの、乾燥に強いものなど、いくつもの品種を備えて契約農家の気象環境に適したものを配っていたのだが、それらがすべて流された。
契約農家を回って、菌床を分けてもらうしかないな。茸丸がため息をつく。
倉橋溜池の堤の修理が始まっていた。『ふう』は仕事に出て来ていない。
片田が石之垣太夫を雇った。
『ふう』と共に、覚慶運河を建設した男だ。
「『ふう』、最近どうなの、役場にも出てこないけど」『いと』が石英丸に尋ねる。
「ああ、苦しんでいる。夜、悪い夢を見たり、昼間でも急に叫ぶことがある。あれを思い出しているんだろう」石英丸が答えた。




