戦略的撤退(Tactical withdrawal)
北畠教具は考えていた。
“火薬、それに彼らの、あの兵器。あれが手に入れば我が軍は無敵になる”
“そして、伊勢一国の支配はおろか、南朝を再興し幕府を開くこともできるであろう”
教具の心に狂気が忍び寄ってくる。
“いま、あれを手に入れるためであれば、我が方の兵の一割、いや、二割を失ってもかまわない。手に入った後は、我が軍からは死傷者がほとんど出なくなるからだ”
彼らの持つ武器、特に鉄の棒のようなものは、弓矢に比べ遠距離から正確にこちらの兵を倒す。あれに対抗するためには、多くの兵が散開して前進すればよい。
放牧地一杯に兵が拡がって前進すれば、狙いを集中することが出来ないであろう。
そして、速歩か、それより少し速い速度で前進させれば、焙烙の狙いも、難しくなるだろう。そうやって、四千名の兵が一斉に片田村に雪崩れ込めば、数の少ない相手をねじ伏せることが出来る。
損失の増えるやり方だった。普段は使わない。しかし、それで、火薬と兵器が手に入るのであれば、やる価値がある。
兵を前にして教具が言った。
「これから、全員で片田村に前進、これを制圧する」
「目的は村を無傷で入手することである」火薬製造法と武器を手に入れたいからだ。
「従って、村での殺人、略奪、放火、破壊乱暴などを禁ずる。分隊長、副分隊長はこれを厳しく監視せよ。違反したものは、その場で切って構わぬ」
伊勢国の軍隊は十名で一つの分隊を成しており、分隊長、副分隊長を置いていた。
「敵の兵器は、狙いが良い、従ってわが軍は、放牧地全体に広がって速歩で前進する」
「全員で一斉に畳みかけ、敵の防御陣地を突破、村に侵入する。いいか」
四千名の兵の「おうっ」という声が響く。拳を上げる者もいた。
「戦が終わった時に、片田村の内部にいたものには、すべて戦後に一貫(約七万円)の褒美を出す。たとえ、傷を負っていても、死んでいてもだ」
兵達は、さらに大きな叫び声を上げた。
「進軍」
北畠教具の兵が、女寄を越え粟原口に進んだ。
犬丸の騎兵、百騎が片田村の南の防衛線を越えて東に前進する。馬に曳かせた荷車を四台従えている。
深い戦場の所々に荷車を置いていく。荷は小銃弾の箱である。
中女寄と呼ばれる、粟原川が作る谷の一番深いところまで来た。ここから先は直線の長い登り坂である。
朝日を背にして、北畠軍がやって来るのが見えた。川沿いの道だけではなく、川の左右の田の畔、山際など分散して行進してくる。水を落とした田の稲穂をかき分けて進んでくる者もいた。
“随分とばらけて来たもんだな。銃の狙いを散らそうというのか”犬丸が思った。
「全員、各個射撃とする。なるべく兵の厚いところを狙え。撃て」犬丸が命令する。
銃声が響き、北畠軍の全面で数名の兵が倒れる。
何度も乱射を繰り返すが、谷全体に広がる北畠軍が接近する速度の方が速い。
「五十間(九十メートル)程、後退する」
騎兵達が馬を返し、少し後退して、また射撃を始めた。北畠軍の進軍が衰える様子はない。
いま、犬丸が行っている、退却しながら敵を消耗させ、ないしは砲撃地点に誘導する運動を、軍事用語では戦略的撤退(正確に言うと戦術的撤退)という。敵に多くの出血を強いるための撤退である。
犬丸達の場合は、そうせざるを得なくて撤退戦を行っているが、敵の進軍速度を落とし、消耗を促すという点では戦略的撤退と言える。
数度の後退を繰り返した。銃弾の尽きた兵が出て来たので、犬丸達は最初の補給点まで後退した。各自が銃弾を取り、犬丸は片田村に向かって火箭を放った。
重迫撃砲の攻撃を開始せよ、との合図だった。念のため、騎兵を散開させる。
鳥見山と忍阪山から重迫の試射弾が一発ずつ飛んできて、山の斜面に当たった。
「ちぇっ、交互に撃たないと、どっちがどっちの着弾なのか、わからないだろう」犬丸がぼやく。
犬丸が防衛線に置かれた臨時の観測所を見つめる。緑と黄色の火箭が上がった。もっと手前に撃て、という合図だ。
“敵は全体が速歩で前進してくる。あの状態で弓を撃つことは出来ないだろう。敵に接近しようと思ったが、観測所が機能するまでは、どこに重迫が落ちてくるかわからない”
「さらに百間(百八十メートル)程後退しよう」犬丸が騎兵達に言った。
後退するにつれ、放牧地の谷が左右に拡がってくる。北畠兵はさらに散開した。
鳥見山信号所の兵が機転を利かせたのだろう、重迫が交互に撃つようになってきた。しだいに着弾が北畠兵に寄ってくる。
犬丸達が二番目の補給点で、銃弾を補給する。この位置からは鳥見山の頂上が見えた。もうすぐ鳥見山は観測所無しでの射撃ができるようになる。火箭誘導は忍阪山だけになるだろう。
犬丸は、さらに後退して、各個射撃を指示する。もう、五百名程も北畠軍を削ったろうか、それとも敵が左右に散開しているので、少なく見えるようになっただけだろうか。
その時、前面の北畠軍の中で、幾つもの爆発が起きた。敵兵が鳥見山の視界に入ったのだった。
犬丸達の周囲にも幾つかの重迫弾が落下した。距離がありすぎて、区別がつかないようだった。
「次の補給所まで、後退する」犬丸があわてて命令した。




