北畠教具(きたばたけ のりとも)
好胤と『いと』が作ったたたき台は、養老律令の写しと共に堺の片田の元に送られた。
片田は、小山七郎、朝基親子と相談して、一部を変更し、『仮刑法』という名前で制定公布した。
明治新政府は、慶応四年(一八六八年、明治元年)二月に『仮刑律』という新政府下における刑法を制定している。鳥羽・伏見の戦いの翌月である。初期の適用範囲は旧天領(幕府領)であり、後に日本全体に適用される。
『仮刑律』は、律令と公事方御定書を基にして作成された。公事方御定書とは、徳川八代将軍、吉宗が寛保二年(一七四二年)に定めた武家刑法である。片田の時代にはない。
片田の刑法の定め方が拙速のように見えるかもしれないが、明治政府でも、ほぼ同様のやり方で刑法を定めているのである。
明治政府がフランス刑法を参考にして、旧刑法を改めて定めるのは明治十三年であり、後に多くの議論と、数度の改定を経て現行刑法の形になるのは明治四十年である。刑法を定めるのに、十年から四十年もかかっているのである。
片田商店軍は、大津川を挟んで和泉国の細川軍と戦った。犬丸達の騎馬隊が大津川の幾つもの支流を越えて細川軍の背後に回り、これを壊滅させた。
ついで、岸和田城も数日で落ちる。戦闘の経過は鼎三城とほぼ同一であった。
守護の細川氏の一族は、京都に追放させられた。
片田商店が和泉国を手に入れた。
一部地侍が、田倉崎から金剛山に至る和泉山脈の山襞に潜んで抵抗したが、これらは雑賀衆に委ねることにした。
細川勝元の前に細川常有と細川持久がひれ伏していた。
二人はいずれも和泉国半国守護である。場所は京都の細川勝元邸であった。
「半月も、持たなかったというのか」勝元が言った。
「なにしろ、無尽蔵の火薬を持っております。それを湯水のように使い、石や火油など、あらゆるものを飛ばしてきます。とてもたまるものではありません」
「さようです。片田の軍が来たならば、この邸も、三日と持たないでしょう」
「火薬、か。片田はどこから手に入れるのであろう、琉球か」
日本は雨が多く、湿度が高いため、硝石を手に入れにくいと言われていた。また、大陸の明と朝鮮は日本への硝石の輸出を禁止していた。輸入するとすれば、琉球経由の密貿易ぐらいしか思いつかなかった。
「それが、片田商店は硝石を作っているようなのです」持久が言う。
「作る、どうやって」
「方法は分かりませぬ。しかし彼らの火薬は大和の片田村から大和川を伝って運ばれて来るとのことです」
「『とび』の村からか」
この時期、片田村や『とび』の村は、なにかあったときの避難場所として有名になっている。
「干しシイタケ、眼鏡、硫安、鏡の次は火薬か。いろいろなものを作るやつだな」
「はい」
「待てよ、大和川を使って和泉国に運ばれる、と言ったな」
「申しました」
「と、言うことは、大和川で火薬などを運ぶ船を襲えば、火薬を奪えるかもしれん」
「おおせの通りだと思います」
「加えて、『とび』の片田村を襲えば、火薬の製造を絶つこともできるわけだ」
「おそらく、火薬だけではなく銃と彼らが呼んでいる飛び道具や、火箭なども、その村で作っているものと思われます。あわよくば、製造方法を手に入れることができるかもしれません」
「じゃが、大内が入京した今となっては、大和に派遣する軍が無い」
「大和川の水運の襲撃には、筒井氏を当ててはいかがでしょう。大和川は筒井の領地のすぐ南を流れているので、土地勘があります。それに、筒井氏の兵力は大勢に影響を及ぼすほどではありますまい」常有が言う。和泉国を奪われたのがよほど悔しかったのである。ここに来るまでに片田軍を攻略する方法を考えてきたようだ。
筒井氏とは筒井順永のことである。畠山家のお家騒動では、当初から弥三郎派であり、嶽山城の戦いでも、義就追討軍に加わっている。
「筒井か、たしかに筒井だけであれば、京都から離脱させることができよう」
「片田の村については、私に考えがあります」持久が言った。
「どのような考えだ。申せ」
「京都の兵が動かせなくとも、使える兵は他にあります」
「どこの兵じゃ、言ってみよ」
「は、伊勢の北畠氏が、長谷寺に留め置かれているはずです。北畠氏に片田村を襲わせてはどうでしょう」
持久も宿題をやってきていた。
細川持久が言っている北畠氏とは、北畠教具のことである。伊勢の国司であり南伊勢に勢力を持っていた。そのため幕府が派遣した守護、一色義直の支配は北伊勢に限られていた。
北畠教具は、南北朝の争乱の折の南軍の元勲、北畠親房の四代の孫である。代々幕府に従うことがなく、この時代にあっても守護ではなく、国司として伊勢を支配していた。
応仁の乱にあたり、教具は東軍支持を表明した。
一色義直が西軍であることが、東軍支持の主な理由であろうが、それに加えて室町幕府に接近する良い機会だとも考えたのであろう。
後に教具は伊勢守護を兼任しているからだ。
しかし、この時点では将軍足利義政は北畠氏を信頼してはいなかった。南軍方であった、という来歴から、どうしても警戒心を拭うことが出来なかった。
そのため、教具から上洛して参戦したい、という希望が出たのであるが、警戒する義政は数千の北畠教具軍を大和の長谷寺に留め置いたままであった。
「なるほど、北畠の軍を片田村に向けるのであれば、京都から兵を割くわけではない。よし、それは将軍に具申してみよう」
この時期、北畠教具が本当に長谷寺に軍を進めていたのか、裏は取れませんでしたが、面白いので便乗しました。すでに物語は史実から離れ始めています。




