古代の律令を読む
慈観寺の講堂で、好胤さんと『いと』が、養老律令と格闘していた。
二人は、片田に頼まれて、養老律令を参考にして、新しい国の刑法のたたき台を作っていた。
この養老律令は、関白の一条兼良が、片田の求めに応じて貸し出したものだ。
兼良は、弘仁、貞観、延喜の三代格式も併せて、貸し出してくれた。
格式は後回しにしよう、二人は決めた。
今、急いで必要なのは、犯罪を罰するための根拠だった。
律令は漢文体で書かれている。好胤さんがそれを、『いと』にも解るように読み下して、内容を説明する。
「この冒頭の『五刑』というのは、罰の程度のことじゃ、もっとも軽い笞打ち十回から、杖で叩く罰、懲役、流刑、もっとも重いのが死罪じゃ」
「『贖銅一斤』ってかいてあるのは、なんなのですか」斤とは重さの単位である。
「ああ、それは、例えば『笞十贖銅一斤』とあれば、銅一斤を支払えば、笞打ち十回の罰を免除する、という意味じゃ」
「え、では、『絞斬二死贖銅各二百斤』とありますが、銅を二百斤払えば、死罪を許されるということですか」
「そういうこと、じゃろうな」
「それでいいんでしょうか」
「まあ、日本の律は、唐の律より、緩やかじゃといわれておるからな」好胤さんが言った。
「この刑罰の種類の部分は、変更する必要あるまい」
「死罪のところだけでも、銅による免除をやめませんか。お金持ちなら人殺しをしても、金を払えば許されるというのは、いかがでしょう」
「ならば、そうするか」
「次の『八虐』じゃが、これは、国の秩序を乱す、重大な罪を列挙している。国に対する反逆とか、先祖近親者に対する罪を言う。じゃが、この部分は、今は外しておこう。片田殿の考える国造りがよくわからんからな」
「そうですね」
「次の『六議』であるが、これは罪を許す場合のことを書いてある。帝とその近親者、三位以上の貴族には、律による罰は適用されない。あとは賢者、能力のある者、武功のある者なども許されるという」
「それも、とりあえず、入れないほうがよさそうですね」
「うむ、例外を作ると、揉めるじゃろ」
賊盗律の十五、造畜条が『いと』の目に留まる。
「この、『凡造畜蟲毒 及教令者絞』って、なんですか。絞って死刑ですよね」
「ああ、それは『こどく』という呪術の一種じゃ。壺のなかにたくさんの種類の虫、ヘビ、カエルなどを入れて共食いさせる。勝ち残った虫が神通力を持つので、これを呪おうとする者の食事に混ぜて殺す、というものじゃ」
「そんなことがあるんでしょうか」
「呪い、じゃよ。そんなことがあるものか」
「では、これもいらないですね」
「そうじゃ」
律は、条文が少ないので、それほど時間は掛からなかった。
「令は、政を行う方法を書いてあるものじゃから、参考程度に読むのがよかろう。いま必要なのは捕亡令と、獄令くらいなもんじゃ」
好胤が言う通り、例えば捕亡令には、盗賊・殺人などがあったときに、どのように兵を動かすか、どの地域が担当するか、などが細かく書いてあった。
「これ、おもしろいですね、『いと』が指さした。捕亡令六条、有死人条だった。
【死人が見つかり、身元不明の場合には、最寄りの官に通報すること。死体は仮埋葬して、年齢・性別・人相・所持品等を書いた木札を立てて、家族を探させること】
「昔は、こんなことまでやってくれていたんですか。今とずいぶん違いますね。今は行き倒れたらそれっきりでしょう」
「昔、朝廷がしっかりしておったときには、それなりに法により国が支えられておったのじゃろ」
『いと』は養老律令に興味が出てきた。
「これ、家に持って帰っていいですか」『いと』が帰り際に養老律令を持って言った。
「ああ、かまわんが。読めるのか」
「今日一日読み下していただいたので、だいたいの意味を知るくらいはできるようになりました」
夜、『いと』が火皿の明かりで律令を読んでいた。
戸令の三十二条、かん寡条には、このようなことが書いてあった。
【凡『かん』寡 孤独 貧窮 老疾 不能自存者 令近親収養 若無近親 ~ 】
『かん』は六十一歳以上で妻のいない男、寡は五十歳以上で夫のいない女、孤とは十六歳以下で父の無い者、独は六十一歳以上で子のない者とされている。
また貧窮している者、老人(六十一歳以上)、疾は傷病・障害があるものである。
これらの者が自活出来ないときには、まず近親者で収養しなければならない。もし近親者がいない場合、その者が居住する里にて面倒を見ること。
里とは五十戸を集めて一里とし、里長を置いた。
そのほか、もし路上に病人がいて、不自由している場合、その地の郡司が収容し、里に預けて安堵すること。医療を与え、事情を問い、本籍を明らかにすべし。
病が癒えたならば、本来の居住地に戻すこと。
“このようなことまで、国が配慮してくれていたの”
『いと』が感心した。
国が直接なにかをしてくれる、というのではない。里を作って助け合え、ということだ。
もちろん、国がこうあるべき、といっても実現出来ないことは多い。でも、あるべき姿がある、というだけでも素晴らしいことだ。
「『じょん』の建てる国って、こんなふうになるのかしら」




