米珠薪桂(べいじゅしんけい)
ウツロギ高地の南の端にある観測所の柱に三枚の信号旗が揚がる。
一番上が前後左右、続く二つが数字を表している。
「左七十三……右二十七……手前三十五……」
迫撃砲陣地の兵が、観測所の指示に従って、砲の向きを調整し、榴弾を発射する。
若狭国の東軍、武田国信の兵は、数度の攻撃に失敗したあとに、ウツロギ高地の西側、赤崎からの攻撃をあきらめた。
彼らは、代わりに北陸道を、敦賀から、樫曲、越坂と進み、ここで北陸道を外れる。越坂から木ノ芽川に下ることをせず、少彦名神社のところで、左に折れ、真北の山中に入ることにした。
ウツロギ高地の南方からの攻撃である。
山を越え、急斜面を下れば、木ノ芽川の関の北側、安宅丸の補給路に出る。この経路ならば、迫撃砲陣地からは、途中にある最高峰に隠れた死角になり、あのいまいましい砲で攻撃されることはないだろう、国信はそう思った。
しかし、片田商店軍は、その最高峰に観測所を設け、彼らの位置を把握していた。
一台目の迫撃砲の照準が定まると、残りの四台は、その弾道を辿るように狙いを定め、国信軍の周囲に榴弾を落とした。
この日は、北の富樫政親の軍も攻めて来ていた。加賀半国の守護である。彼らは木ノ芽川関の北にある集落、葉原から西に行き、小さな丘を越えて補給路を遮断しようとした。
しかし、彼らの進路は、迫撃砲陣地から直視できる領域にあった。
政親の兵に、残り五台の重迫から、大量の榴弾が浴びせられた。
応仁元年(一四六七年)夏、大内政弘が入京する前の京都では、西軍には二つの拠点が残されているだけだった。一つは西の山名宗全邸、もうひとつは南の斯波義廉邸である。
山名宗全邸には、六月に安芸、備後など、山名一族が守護となっていた六か国から、丹波を経由して兵が入っていた。
東軍は、比較的攻めやすいと考えられた斯波義廉邸を包囲して、これを陥落させようとしていた。
斯波義廉の邸は室町通り沿いにある。
藤林友保が『あや』の店の屋根から北側を見渡した時、赤い炎を背景に黒く浮かび上がった邸が義廉の邸である。
義廉の邸の周りは、戦火で焼け果てていたが、義廉邸と四方に建てた高い矢倉は健在だった。
その屋敷は東軍に包囲されている。
西軍の援軍、大内政弘の軍が来る前に、なんとしてでも義廉邸を陥落させたかった。
「そろそろ、夕飯にするか」隊長が言った。
「今日は、なににするんだ」
「そろそろイモが取れる頃だろう。イモ汁にしないか。あと兵糧な」
「皆はどうだ」隊長が尋ねる。
彼の部下達から同意の声があがる。兵にとって食事は唯一といっていいほどの楽しみだった。
「額田の四郎、では買ってこい」そういって隊長は陣葛篭から銭貫を取り出し、一人十五文、八人で百二十文を抜き出して、額田の四郎とよばれた若者に渡した。
イモ汁は、サトイモを煮た汁のことであり、兵糧と言っているのは握り飯二つと味噌、梅干しなどを経木で包んだものである。
彼らは富樫正親の兵だった。富樫軍主力は木ノ芽川で安宅丸達によって閉塞されていたので、主人に従って京都に出て来ていた百名程のみの戦力だった。
他国の兵と共に斯波義廉邸の包囲に参加しており、南側の一角を担当していた。
京都で戦が始まって三月程しか経っていないが、すでに東軍では兵に兵糧を提供することが出来なくなっていた。淀川と木ノ芽川を押さえられ、東軍諸国からの物資が途絶えたからだった。
東軍の将は、兵糧の代わりに銭を兵に支給した。その銭で食料を調達しろ、ということだ。
額田の四郎と呼ばれた若者が、預かった銭を手拭で包んで懐に入れ、鉄鍋を片手にもって、南に向かった。
前線を離れた鴨川の河原や二条の大通りには、焼け跡のなかに、彼ら銭を持つ兵を目当てにした屋台が多く出ていた。
四郎が室町通りを南に下り鏡屋町を抜ける。『あや』の店は、まだ焼けていなかった。
二条通りに出る。いろいろな屋台が並んでいる。
兵糧屋、多様な惣菜を売る萬菜屋、卵売り、野菜売り、米小売、焼き魚屋など、兵の食事を売る店がある。
その場で食事を出す屋台もあった。握り飯屋、定食のようなものを出す飯屋、蕎麦屋、素麺屋などが並んでいた。
「『とび』の名物、龍田川の錦生蕎麦」という看板を出す店があった。恐らく『おたき』さんの出店だろう。『とび』と竜田川は大和盆地の正反対だ。
食べ物以外にも、布屋、小袖屋、矢屋、槍屋、具足屋、骨董屋などが出ている。これらの店は売るだけではなく、買うこともする。
「なんでも買う」という恐ろしい看板を掛ける屋台もあった。
「兵糧一つ、十文なのか、今朝は八文だったじゃないか」兵糧屋の前で額田の四郎が言った。
「もうしわけないねぇ。米が入りにくくなってきて、値があがってるんだよ」兵糧屋の女将さんが言う。
「でも、どこもみんな十文だよ、私のところだけじゃないからね」
「しかたねぇ。それで売ってくれ」四郎が言う。
「残り、四十文か。どれだけイモ汁が買えるだろう」そう言って幾つかの萬菜屋をのぞく。
イモ汁を売っている屋台があった。
「イモ一個二文だ。汁はイモが隠れるだけ、かけてやる」萬菜屋が言う。
イモ一個二文とは、恐ろしく高いな、と思ったがしかたない。
「それで頼む」額田の四郎が言った。
イモ汁は、持ってきた鍋半分程にしかならなかった。
“みんな、がっかりするだろうな“
『米珠薪桂』とは、米が宝玉のように、薪が香木のように高いという四字熟語。出典は『戦国策』




