北陸道争奪の戦い
応仁元年(一四六七年)八月三日に兵庫を発った大内政弘は、八月二十三日に京都の東寺に入った。兵と非戦闘員を合わせて三万と言われている。
大内政弘の入京により、山名宗全や畠山義就などの在京の西軍が勇気づけられる。
一方で、細川勝元の東軍には、援軍が来ていなかった。
当初、浦上則宗の策で、山名方の国に紛争を起こし、西軍の上洛を防いだ東軍が有利であったが、大内政弘軍の上洛で、形勢は逆転した。
勝元が多くを支配する四国の兵は、片田の艦隊による明石海峡と紀淡海峡閉鎖により、兵庫、尼崎にはいることができない。
四国の細川兵は、東軍の赤松政則が山名より奪還した播磨の港に上陸し、そこから東に向かい、大内政弘軍の背後を衝く作戦に出た。
このために、大内政弘の率いてきた軍の一部は、兵庫、尼崎の防衛のために残さなければならなかった。
より深刻なのは北陸道であった。
ウツロギ峠の南、北陸道が木ノ芽川を渡る所に、安宅丸の海兵隊が関を設け、周囲に部隊を展開していた。
関とは言うが、関銭をとるためのものではなく、東軍の兵や物資の通過を妨げるものである。
そのため、その先の越前、加賀、飛騨、能登、越中の兵と兵糧は、京都に来ることが出来なかった。
わずか四隻の砲艦と、数百名の兵のために、五ヵ国、数万の兵が足止めされているのである。
「ウツロギ峠は、まだ抜けぬのか、治部はなにをやっておるのか」細川勝元が歯ぎしりする。
治部と呼ばれたのは、武田国信である。このとき治部少輔という官位を持っていた。国信は兄の武田信賢により、若狭に派遣され西の丹後の一色氏との間で国境を争っていた。
国信は、東にも兵を回さなければならなくなった。
一方、ウツロギ峠の向こう側、越前国では、いち早く国に戻った東軍の斯波義敏が、北側より安宅丸の関を抜こうとしていた。
木ノ芽川の関で銃の斉射により追い返された義敏の軍は、北陸道の旧道を通って五幡海岸に出て、関にいる海兵隊を孤立させようとした。
義敏の軍は、今庄から、南の木ノ芽峠に向かわず、古代の北陸道を辿って西に進み、山中峠をこえて、杉津、阿曽、利椋峠と進む。
利椋峠から、眼下に五幡の塩田を見下ろす。ここから沢沿いに進めば、五幡海岸の東に出る。
左右が開け、正面に敦賀湾が広がる。その向こうに緑色の敦賀半島が聳える。
五幡海岸に見慣れぬ大きな船が停泊していた。左向きの船首から錨を降ろしており、船尾からは左右二隻の連絡艇に綱を延ばしている。船腹にいくつもの窓のようなものがあり、その内側に輪のようなものが見える。
義敏の陸軍は、片田の砲艦を見たことがなかった。
窓から煙が出た。大きな爆発音が響き、義敏の兵のまわりにこぶし大の石が降ってきた。
甲板上にも太めの竹筒のようなものがあり、上に向かって白い煙を吐く。黒い物が青空に高く打ち上げられ、やがてこちらに向かって落ちてくる。
これは石よりも危険であった。地面に落下すると爆発し、あたりに破片をまき散らした。
甲板上の水兵が、棒のようなものをこちらに向ける。棒の先に白煙がふわっと出たと思ったら、なにかが通り抜けるような摩擦音が聞こえた。
義敏の兵がばらばらと倒れる。
「これは、いかん」兵達が、越えてきた利椋峠に向かって退却しはじめる。
第三艦隊の旗艦、五十鈴の艦長が、五十鈴の艦尾甲板で、連絡艇に指示を出した。沖側の連絡艇が、櫓を漕ぎ、五十鈴をわずかに左に回す。
次に艦長は、前四帆に正面から東風を受けさせた。これで艦が右舷側に傾く。
「乱射を続けろ」艦長が命令した。
艦長の操作で、艦砲がわずかに左上に向いた。
修正した弾道が、利椋峠に向けて潰走する義敏軍を追跡するように伸びていった。
一方、若狭国の武田国信も、南側から木ノ芽川の関による閉塞を打開しようとしていた。金ケ崎城の北、赤崎の漁村あたりから兵を山中に入れ、山越えでウツロギ峠の最高点を通過する片田の輜重を弓矢で狙撃した。
山中を越えるため、兵の数は少数であった。
安宅丸は、日照りが続くのを見計らって、ウツロギ峠越えの道の南側に油火を放ち、山火事により、狙撃兵の隠れ場所を焼き払った。
武田国信は、赤崎から沢沿いに、ウツロギ峠に達する軍道の整備を並行して行った。弓兵と槍兵、彼らに必要なものを担いで歩く陣夫などが通れれば良い程度の道である。馬や車を通す必要はなかった。




